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歴史系総合
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2005/08/22(月) 20:54:42 ID:F8Roclbo
- 半島の歴史について語りましょう。
前スレ
【韓国・朝鮮の歴史】
http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=korea&key=1054380199
- 87 名前:日語商売 ◆G2IlbonwGk 投稿日:2008/05/30(金) 18:37:59 ID:h6uldtmk
- >>57
超亀レスながら
>崔官によれば、その「木田孫兵衛墓」からは「明治十四年
>甲辰四日」と読み取れると言う。
干支の書き方に引っかかったので、調べてみましたら、以下の疑問が。
・明治14年の干支は癸巳。甲辰ではありえない(明治ならば37年)。
・木田孫兵衛の生存以降の甲辰年は、古い順に慶長9年、寛文4年、享保9年、天明4年、天保15年(弘化元年)、明治37年、昭和39年。
「明治十四年」と間違えそうな年号は1つもない。「明治三十七年」を除けば「天明四年」がやや似ているか?
・甲辰を月の干支と捉えることもできるが、甲辰月は明治14年には存在しない(一番近いのが翌明治15年の3月)。
それに、月を数字を示さず干支で表記するのは極めて異様。もしや「四日」は「四月」の間違い?
・明治5→6年の太陽暦採用以降は、年に干支を付すことすら少なくなる。
つまり、「明治十四年甲辰四日」という読み取り自体に非常に重大な間違いがあるとしか考えられません。
崔官の本では「残りの碑文は薄れて判読不可」とあり、そうなると年月日の読みも怪しいでしょう。
地元の郷土史家とかでちゃんと読んでいる人はいないのでしょうか?
- 88 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 89 名前:名無しさん 投稿日:2008/06/14(土) 17:59:48 ID:QebGGvjI
- >>87
ありがとうございます。返事が遅れてすみません。
整理のために、崔官著『文禄・慶長の役−−文学に刻まれた戦争』(1994年) の
p.220より該当部分を引用します。
現在、大分県下毛郡山国町毛谷村 (槻木村) には、毛谷村六助 (後に貴田
[木田、喜田] 孫兵衛と改名) の墓 (「木田孫兵衛墓」明治十四年甲辰四日、
残りの碑文は薄れて判読不可) がある。
その続きが以下。
そこの喜登家 (現在の家は約二百年前に建てられたという) には「享保元
(一七一六年) 丙申七月写之」と記されている古文書「毛谷村六助畧縁起」が
伝わり、毛谷村六助の実際の行跡について物語ってくれる。
これに関しては、
田畑博子、「『彦山権現誓助剣』論」、『国文学 解釈と鑑賞』、第61巻5号、
164-174頁、1996年
に以下の記述があり、別ソースから裏付けています。
山国町の六助のお墓をまつっている月木博氏の家には、「毛谷村六助畧縁起
写」が残っている。この巻物は、「享保元丙申七月写之」「右明治三十五年
五月再写」とあり、墓の隣りの喜登家の物を写したものである。
田畑氏も墓の写真を掲載していますが、残念ながら碑文については触れていま
せん。一応、私も「明治十四年甲辰四日」が何かの読み間違いという可能性を
してみました。「四日」が「四月」の間違いというのはありそうです。四月が
甲辰にならない気がしましたが、新暦なら問題ないようです。対応する年が明
治の 5 * N 年とすると、明治35年3月なら、『縁起』の写しと連動していい感
じです。問題は、読み損じて「十四年」にはなりそうにないことです (丗五?)。
やはり現物を確認しないことには何ともいえませんね。
- 90 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 91 名前:名無しさん 投稿日:2008/06/22(日) 16:54:34 ID:xzJyKsSA
- 昔集めた資料から。
園田俊介: 「北魏時代の楽浪郡と楽浪王氏」、『中央大学アジア史研究』第
31号、1-32頁、2007年
ググったところ、著者は津島市立図書館副館長らしい。
楽浪郡で王氏と言えば、文献にも出土物にもよく出てくる有力な一族だが、こ
こでは、高句麗に滅ぼされた後の僑郡を扱っている。まず、史料の記述が断片
的な楽浪僑郡の変遷を王氏のいくつかの墓誌を使って補完し、次に北魏時代の
王氏の婚姻関係を整理している。しかし、私にとっては、議論の出発点からし
て初耳だったりする。
* 楽浪郡は313年頃に半島で消滅したあとも、朝陽からはじまって、北京、遼
寧省義県付近、河北省満城県付近の順で移転し、最終的に廃止されたのは北
斉時代の556年。
* 北魏の文明馮后の母や宇文泰の母が楽浪王氏であり、半島の楽浪が滅亡した
後も (というか滅亡後こそ) 有力な一族だった。
北魏の王温墓誌 (532) で主張される楽浪王氏の出自は、周文王、太子晋を族
祖とし、太原王氏の王覇、王沈を中間の祖先となっている。楽浪への移住は、
313年 (正しくは314年) に石勒の禍にあって逃げたとあり、年代的にはかなり
下っている。というか、ちょうど楽浪郡が高句麗に滅ぼされた頃。園田氏は附
会の可能性を指摘している。
楽浪王氏といえば思い浮かぶのは、『後漢書』循吏列伝の王景にある記述。先
祖の王仲が前漢文帝の時代に琅邪郡不其県から楽浪に移ったというもの。王温
墓誌はこれとは異なる。園田氏もこれには触れていない。楽浪王氏に複数の系
統があるのか、単に後世に先祖を偽ったのかわからない。
註にもあるように、もうひとつ思い浮かぶのは『新撰姓氏録』の記述。右京諸
蕃上の山田宿禰が周霊王の太子晋を祖とし、これとは別に、河内国諸蕃の山田
宿禰が魏の司空王昶を祖とある。王昶は晋の子孫を称するので、この二つは実
は同じ伝承と言える。王温墓誌の記述と接点があるようで興味深い。
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