歴史系総合
[1:名無しさん(2005/08/22(月) 20:54:42 ID:F8Roclbo)]
半島の歴史について語りましょう。
前スレ
【韓国・朝鮮の歴史】
(URL)
[2:名無しさん(2005/08/22(月) 20:58:02 ID:F8Roclbo)]
本家でも総督府でもあまり流行らない近代以前の歴史ですが、気にせずやっていきます。
まずは
http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=korea&key=1054380199&st=26&to=26
から自分の書き込み引用。
26 名前:名無しさんは謝罪汁 [2004/01/02(金) 18:16 ID:jrdt1.9w]
「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国 黄文雄
から引用。
明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳
せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っ
ていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取っ
た。3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺
した。満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗
軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門
に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人
への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。清の将軍である龍骨大が率いた、明
征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。「韓兵ことに
虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝(シナの異称)、朝鮮において何
の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」(恒屋盛服著「朝鮮
開化史」博文館、明治34年)。
この情報の一次史料がわからないままになってます。誰か知っていたら教えて。
ちなみに龍骨大は中国側の文献では英俄爾岱。満洲語では inggūldai です。
稲葉岩吉「清朝全史」にはこうありました。
皮島遂に滅ぶ 半島の全く獨立を失へしにつれ、鴨緑江口一帯の島嶼に據れ
る毛文龍が餘黨の存在は認むべからず。太宗は、師を還すに臨み、新降の漢
兵及び朝鮮の水軍に命じて、皮島を略取せり、首将沈世魁降らずして死す。
明人の害に遇ふもの前後四五萬を計ふといふ。殺戮の行われし時、明人相罵
りて曰く、天朝[明國]朝鮮に於て何の怨かあると、蓋し朝鮮人の漢人を殺害
せしことは、満洲兵よりも酷しかりしといへり。
一体いつ朝鮮が明に攻め込んだのかと思ったら、中国本土ではなく皮島でした。
[3:名無しさん(2005/08/22(月) 22:20:52 ID:F8Roclbo)]
この記述の出所を見つけました。
朝鮮古書刊行会『大東野乗』収録の『続雑録』です。
『大東野乗』は名前の通り野史で、
『続雑録』は趙慶男『乱中雑録』の同じ著者による続編みたい。
問題の部分は以下の通り。
方島中殺戮時。漢人呼罵曰。天朝於朝鮮。有何讎怨。而背漢従賊。恬然殺戮。
至此惨耶。京外聞之者。莫不墜涙。
仁祖実録と承政院日記には同じ記述はないみたい。伝聞なのでちょっと嫌です。
[4:名無しさん(2005/09/03(土) 16:18:07 ID:02w84aGs)]
朝鮮總督府編『佛國寺と石窟庵』から仏国寺と石窟庵の修復工事前の廃墟の写
真をスキャンしてアップロードしたんですが、メモしておいた附属の解説の使
い道がなくなったので、とりあえずここに転載します。序言によれば、解説は
藤田亮策によるものだそうです。中途半端に旧字ですみません。
ttp://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Bulguksa_ruin.jpg
7 大石壇の舊景
『佛國寺古今歷代記』によるに、李氏朝鮮時代に至つても佛國寺の重修は廔々
繰返され、石壇、石階の修補も一再に止らない。而かも尙大正十三年以前にあ
つては石壇の東隅は埋れて土砂の傾斜面をなし、西側石壘の如きは全く土中に
沒して特立せる石壇たるの面目を失ひ、石階は曲り石欄は倒れ甚だ舊態を損じ
て居た。大正十三年四月より十四年八月に亙つての總督府の大修理によつて面
目を一新したが、而かも研究の不十分な爲めに却て新羅の構想を損じたものが
ないでもない。
青雲橋白雲橋は二段の大石壇の中央に二重の雲梯を架し、巧妙な穹窿と石階
とによつて紫霞門に通じ、兩側の勾欄は早く失はれて親柱のみが左右に立つて
居る。七寶橋蓮華橋亦二段の穹窿と石階とから成つて居るが、曾ては安養門に
通じて左右歩廊に連つて居たことが知られ、而かも大石壇の中段に連續して高
さは白雲橋に等しく、從て又幅に於ても長さに於ても甚だ短くなつて居る。
寫眞は大正三年の撮影で石積其他の狀態の今日の夫れと稍々異るものヽある
ことが比較出來る次第である。
--澤 俊一撮影--
注: 二の字点を「々」で代替
ttp://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Seokguram_ruin.jpg
22 石窟の舊景
石窟及び石窟庵の所在につきては久しく傳記を逸し、『三國史記』・『三國
遺事』・『慶尙道地理志』以下全く之を舉げず、僅に『佛國寺事蹟』・『佛國
寺古今歷代記』の所傳を唯一のものとするが、石窟及び其附近の遺跡の示す年
代は明に新羅の盛時にあつて、景コ王頃とするに何人も異論はない樣に思ふ。
『古今歷代記』に「康凞四十二年癸未、從悦、重刱石窟庵、又築窟前石階。五
十七年戊戍、重刱、化主大謙」とあり、朝鮮英祖・正宗代の文人の詩にも石窟
及び石窟庵の存在が表はされてゐる。
其後暫く人の耳目を脱して、明治三十五年關野博士の佛國寺調査の際にも之
を知らず、明示三十九年に慶州を訪れた今西龍博士も其所在を聞いて居ない。
明治四十二年頃に至り初めて慶州の人士によつて世に紹介せられ、大正二年に
は朝鮮總督府は早くも其修理工事に着手したのである。
寫眞は其の修理以前の狀態を示すもので、石窟の頂石は落下して雨露は本尊
如來に降り注ぎ、土砂は窟内を三尺近く埋め、前室は屋蓋を失つて左右の彫像
は傾斜し、大石は四散して草莽亂離の有樣であつた。又窟内の石階は亂石を積
んで僅に上下を便するのみで、窟の正面に架せられてあつたと思ふ石段、砌石
も全く見ることが出來なかつたのである。
[5:名無しさん(2005/09/14(水) 23:49:57 ID:H9UqA6bk)]
檀君系新興宗教について、
村山智順、『朝鮮の類似宗教』、1935年
から引用します。
これは、朝鮮総督府嘱託として作成した調査資料で、
檀君系については、「第五章 崇神系類似宗教團體」の 444-447 ページに記載があります。
例によって再現できるところだけ旧字です。
二、檀君教 (京畿道始興郡東面始興里松洞)
本教はもと檀君の託宣を得たと云ふ白峯なる者に依つて、明治三十七年頃か
ら布教せられたものであつたが、その後京城社稷洞に移り、轉々として教名を
大倧教と稱するに及び、幹部數名は之と分立して明治四十三年九月「檀君教」
と稱せしに創まる。檀君は三國遺事に記載する天降傳說に據つて、爾来朝鮮の
始祖と目さられて居るので、本教の趣旨がこの始祖神を崇拜することは、朝鮮
民族として報本反始の義に協ひ、この尊信を介して人々相互に融和し以て朝鮮
人の使命を全ふすべしと云ふにあつた。從つて創立當時は相當の教徒を得、教
勢も亦やゝ見るべき見るべきものがあつたが、その後幹部間の内訌常に絕えず、
教勢次第に衰退したので、或は教勢擴張或は財政維持の手段として、巫女組合
組織其他の計劃を立て、以てその復興を計るところがあつたが、其の効なく、
現在は殆んど有名無實の有樣である。
猶ほ本教は江原・平安道の各地に支部を設置したが、江原道伊川の支部は
「三聖教」として分立し、平壌の支部は「尊神教」從がその崇神の同一なるよ
り大正六年之と合併し、之が支部となつて布教に從事したが振はず、順川の支
部は教長車風夏なる者祭祀料を貯蓄して百五十圓に達するや、内五十圓を投じ
て檀君教殿を建て、後昭和七年豊山面老文里に支所を設けたが教勢依然振はず、
孟山の支部は昭和元年韓達富なる者京城本部の命を受け、親族八名を入教せし
め自宅を支部として布教に努めたる結果、昭和八年末には約六十名の教徒を得
たが、この教徒數もまた表面的のもので有名無實の有樣である。成川支部は大
正七年成川郡三コ面吳N健なる者、自宅に拜天所を設けて布教擴張を計つたが
意の如くならず、教勢不振、遂に昭和三年この拜天所を廢止し有名無實に陷つ
て居る。
教名 檀君教
布教所 五
地區 六
教從 男 四一
女 一〇
計 五一
三、大倧教 (咸鏡南道永興郡耀コ面北坪里)
本教は明治二十六年頃永興郡耀コ面北坪里の人韓明充なる者、平安南道孟山
郡邑内面新里金廉白に就きて神教を學び、六年間修行の後明治三十二年歸宅し、
自ら教長となつて布教を開始したもので約三十名の教從を得、三月十五日、十
月三日の大祭日及び毎日曜日毎に教從を集めて禮拜を勤行して居た。處がこの
教の儀節は飮酒の上舞踏するものであつた爲めに、一部から神教にあらずして
巫教えなりとて擯斥せられ脫教者を出すに至るや、大正五年施教師李應台を、
當時京城社稷洞に移住した檀君教改め大倧教本司に遣はし、一ヶ月間大倧教を
修めさせ、斯教と連絡を取りて斯教の祭神檀君の肖像寫眞を得、これを禮拜堂
に安置し爾来「大倧教」と稱したものである。翌大正六年大倧教幹部の來つて
同地に教堂三棟を建築するに及び當時四十二名の教勢漸次揄チして百三十名に
達したが、大正十三年頃より漸く衰頽し昭和五年頃には自然に消滅してしまつ
た。
本教の教旨は支那創世の三王たる天皇氏・人皇氏・地皇氏及び朝鮮の開闢主
たる檀君の四神を祀り、尙ほ教徒各自の祖先をも併祀して禮拜尊崇し、その偉
コをしのびて之に感謝し以て精神修養及び生活の開展を圖らしむとするもので
あつた。
四、三聖教 (江原道伊川郡伊川面塔里八九)
本教は江原道伊川郡伊川面塔里の秦龍錫なる者、從來侍天教を信仰して居た
が、その後崔南善の檀君に關する論文を讀むに及びて檀君崇拜に轉じ、昭和五
年二月京城の檀君教に入教、その教主に就きてその教理を聞き、同五月檀君教
則に修正を加え、崇神を檀君・桓雄・桓因の三聖となし、この三聖を念侍して
身心の修養をなす時は幸福に惠まるべしとなす一派を創設し、之を「三聖教」
と名づけ、自ら教主となつて布教に從事したるものである。處が教從七名を得
たのみにて振はず昭和九年十一月遂に解體してしまつた。
教名 三聖教
布教所 一
地區 一
教從 男 五
女 二
計 七
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