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歴史系総合
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2005/08/22(月) 20:54:42 ID:F8Roclbo
- 半島の歴史について語りましょう。
前スレ
【韓国・朝鮮の歴史】
http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=korea&key=1054380199
- 2 名前:名無しさん 投稿日:2005/08/22(月) 20:58:02 ID:F8Roclbo
- 本家でも総督府でもあまり流行らない近代以前の歴史ですが、気にせずやっていきます。
まずは
http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=korea&key=1054380199&st=26&to=26
から自分の書き込み引用。
26 名前:名無しさんは謝罪汁 [2004/01/02(金) 18:16 ID:jrdt1.9w]
「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国 黄文雄
から引用。
明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳
せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っ
ていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取っ
た。3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺
した。満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗
軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門
に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人
への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。清の将軍である龍骨大が率いた、明
征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。「韓兵ことに
虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝(シナの異称)、朝鮮において何
の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」(恒屋盛服著「朝鮮
開化史」博文館、明治34年)。
この情報の一次史料がわからないままになってます。誰か知っていたら教えて。
ちなみに龍骨大は中国側の文献では英俄爾岱。満洲語では inggūldai です。
稲葉岩吉「清朝全史」にはこうありました。
皮島遂に滅ぶ 半島の全く獨立を失へしにつれ、鴨緑江口一帯の島嶼に據れ
る毛文龍が餘黨の存在は認むべからず。太宗は、師を還すに臨み、新降の漢
兵及び朝鮮の水軍に命じて、皮島を略取せり、首将沈世魁降らずして死す。
明人の害に遇ふもの前後四五萬を計ふといふ。殺戮の行われし時、明人相罵
りて曰く、天朝[明國]朝鮮に於て何の怨かあると、蓋し朝鮮人の漢人を殺害
せしことは、満洲兵よりも酷しかりしといへり。
一体いつ朝鮮が明に攻め込んだのかと思ったら、中国本土ではなく皮島でした。
- 3 名前:名無しさん 投稿日:2005/08/22(月) 22:20:52 ID:F8Roclbo
- この記述の出所を見つけました。
朝鮮古書刊行会『大東野乗』収録の『続雑録』です。
『大東野乗』は名前の通り野史で、
『続雑録』は趙慶男『乱中雑録』の同じ著者による続編みたい。
問題の部分は以下の通り。
方島中殺戮時。漢人呼罵曰。天朝於朝鮮。有何讎怨。而背漢従賊。恬然殺戮。
至此惨耶。京外聞之者。莫不墜涙。
仁祖実録と承政院日記には同じ記述はないみたい。伝聞なのでちょっと嫌です。
- 4 名前:名無しさん 投稿日:2005/09/03(土) 16:18:07 ID:02w84aGs
- 朝鮮總督府編『佛國寺と石窟庵』から仏国寺と石窟庵の修復工事前の廃墟の写
真をスキャンしてアップロードしたんですが、メモしておいた附属の解説の使
い道がなくなったので、とりあえずここに転載します。序言によれば、解説は
藤田亮策によるものだそうです。中途半端に旧字ですみません。
ttp://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Bulguksa_ruin.jpg
7 大石壇の舊景
『佛國寺古今歷代記』によるに、李氏朝鮮時代に至つても佛國寺の重修は廔々
繰返され、石壇、石階の修補も一再に止らない。而かも尙大正十三年以前にあ
つては石壇の東隅は埋れて土砂の傾斜面をなし、西側石壘の如きは全く土中に
沒して特立せる石壇たるの面目を失ひ、石階は曲り石欄は倒れ甚だ舊態を損じ
て居た。大正十三年四月より十四年八月に亙つての總督府の大修理によつて面
目を一新したが、而かも研究の不十分な爲めに却て新羅の構想を損じたものが
ないでもない。
青雲橋白雲橋は二段の大石壇の中央に二重の雲梯を架し、巧妙な穹窿と石階
とによつて紫霞門に通じ、兩側の勾欄は早く失はれて親柱のみが左右に立つて
居る。七寶橋蓮華橋亦二段の穹窿と石階とから成つて居るが、曾ては安養門に
通じて左右歩廊に連つて居たことが知られ、而かも大石壇の中段に連續して高
さは白雲橋に等しく、從て又幅に於ても長さに於ても甚だ短くなつて居る。
寫眞は大正三年の撮影で石積其他の狀態の今日の夫れと稍々異るものヽある
ことが比較出來る次第である。
--澤 俊一撮影--
注: 二の字点を「々」で代替
ttp://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Seokguram_ruin.jpg
22 石窟の舊景
石窟及び石窟庵の所在につきては久しく傳記を逸し、『三國史記』・『三國
遺事』・『慶尙道地理志』以下全く之を舉げず、僅に『佛國寺事蹟』・『佛國
寺古今歷代記』の所傳を唯一のものとするが、石窟及び其附近の遺跡の示す年
代は明に新羅の盛時にあつて、景コ王頃とするに何人も異論はない樣に思ふ。
『古今歷代記』に「康凞四十二年癸未、從悦、重刱石窟庵、又築窟前石階。五
十七年戊戍、重刱、化主大謙」とあり、朝鮮英祖・正宗代の文人の詩にも石窟
及び石窟庵の存在が表はされてゐる。
其後暫く人の耳目を脱して、明治三十五年關野博士の佛國寺調査の際にも之
を知らず、明示三十九年に慶州を訪れた今西龍博士も其所在を聞いて居ない。
明治四十二年頃に至り初めて慶州の人士によつて世に紹介せられ、大正二年に
は朝鮮總督府は早くも其修理工事に着手したのである。
寫眞は其の修理以前の狀態を示すもので、石窟の頂石は落下して雨露は本尊
如來に降り注ぎ、土砂は窟内を三尺近く埋め、前室は屋蓋を失つて左右の彫像
は傾斜し、大石は四散して草莽亂離の有樣であつた。又窟内の石階は亂石を積
んで僅に上下を便するのみで、窟の正面に架せられてあつたと思ふ石段、砌石
も全く見ることが出來なかつたのである。
- 5 名前:名無しさん 投稿日:2005/09/14(水) 23:49:57 ID:H9UqA6bk
- 檀君系新興宗教について、
村山智順、『朝鮮の類似宗教』、1935年
から引用します。
これは、朝鮮総督府嘱託として作成した調査資料で、
檀君系については、「第五章 崇神系類似宗教團體」の 444-447 ページに記載があります。
例によって再現できるところだけ旧字です。
二、檀君教 (京畿道始興郡東面始興里松洞)
本教はもと檀君の託宣を得たと云ふ白峯なる者に依つて、明治三十七年頃か
ら布教せられたものであつたが、その後京城社稷洞に移り、轉々として教名を
大倧教と稱するに及び、幹部數名は之と分立して明治四十三年九月「檀君教」
と稱せしに創まる。檀君は三國遺事に記載する天降傳說に據つて、爾来朝鮮の
始祖と目さられて居るので、本教の趣旨がこの始祖神を崇拜することは、朝鮮
民族として報本反始の義に協ひ、この尊信を介して人々相互に融和し以て朝鮮
人の使命を全ふすべしと云ふにあつた。從つて創立當時は相當の教徒を得、教
勢も亦やゝ見るべき見るべきものがあつたが、その後幹部間の内訌常に絕えず、
教勢次第に衰退したので、或は教勢擴張或は財政維持の手段として、巫女組合
組織其他の計劃を立て、以てその復興を計るところがあつたが、其の効なく、
現在は殆んど有名無實の有樣である。
猶ほ本教は江原・平安道の各地に支部を設置したが、江原道伊川の支部は
「三聖教」として分立し、平壌の支部は「尊神教」從がその崇神の同一なるよ
り大正六年之と合併し、之が支部となつて布教に從事したが振はず、順川の支
部は教長車風夏なる者祭祀料を貯蓄して百五十圓に達するや、内五十圓を投じ
て檀君教殿を建て、後昭和七年豊山面老文里に支所を設けたが教勢依然振はず、
孟山の支部は昭和元年韓達富なる者京城本部の命を受け、親族八名を入教せし
め自宅を支部として布教に努めたる結果、昭和八年末には約六十名の教徒を得
たが、この教徒數もまた表面的のもので有名無實の有樣である。成川支部は大
正七年成川郡三コ面吳N健なる者、自宅に拜天所を設けて布教擴張を計つたが
意の如くならず、教勢不振、遂に昭和三年この拜天所を廢止し有名無實に陷つ
て居る。
教名 檀君教
布教所 五
地區 六
教從 男 四一
女 一〇
計 五一
三、大倧教 (咸鏡南道永興郡耀コ面北坪里)
本教は明治二十六年頃永興郡耀コ面北坪里の人韓明充なる者、平安南道孟山
郡邑内面新里金廉白に就きて神教を學び、六年間修行の後明治三十二年歸宅し、
自ら教長となつて布教を開始したもので約三十名の教從を得、三月十五日、十
月三日の大祭日及び毎日曜日毎に教從を集めて禮拜を勤行して居た。處がこの
教の儀節は飮酒の上舞踏するものであつた爲めに、一部から神教にあらずして
巫教えなりとて擯斥せられ脫教者を出すに至るや、大正五年施教師李應台を、
當時京城社稷洞に移住した檀君教改め大倧教本司に遣はし、一ヶ月間大倧教を
修めさせ、斯教と連絡を取りて斯教の祭神檀君の肖像寫眞を得、これを禮拜堂
に安置し爾来「大倧教」と稱したものである。翌大正六年大倧教幹部の來つて
同地に教堂三棟を建築するに及び當時四十二名の教勢漸次揄チして百三十名に
達したが、大正十三年頃より漸く衰頽し昭和五年頃には自然に消滅してしまつ
た。
本教の教旨は支那創世の三王たる天皇氏・人皇氏・地皇氏及び朝鮮の開闢主
たる檀君の四神を祀り、尙ほ教徒各自の祖先をも併祀して禮拜尊崇し、その偉
コをしのびて之に感謝し以て精神修養及び生活の開展を圖らしむとするもので
あつた。
四、三聖教 (江原道伊川郡伊川面塔里八九)
本教は江原道伊川郡伊川面塔里の秦龍錫なる者、從來侍天教を信仰して居た
が、その後崔南善の檀君に關する論文を讀むに及びて檀君崇拜に轉じ、昭和五
年二月京城の檀君教に入教、その教主に就きてその教理を聞き、同五月檀君教
則に修正を加え、崇神を檀君・桓雄・桓因の三聖となし、この三聖を念侍して
身心の修養をなす時は幸福に惠まるべしとなす一派を創設し、之を「三聖教」
と名づけ、自ら教主となつて布教に從事したるものである。處が教從七名を得
たのみにて振はず昭和九年十一月遂に解體してしまつた。
教名 三聖教
布教所 一
地區 一
教從 男 五
女 二
計 七
- 6 名前:名無しさん 投稿日:2005/09/15(木) 00:07:07 ID:zUf3Huc2
- どんな組織でも仲間割れするところはやはりウリナラサラムです。しかし自然
消滅という村山の説明は、日帝の過酷な弾圧を受けたとするウリナラの公式見
解と随分異なります。その一例を下に載せます。出てくる固有名詞も一致する
ことろが少ないし、再調査が必要そうです。
檀君信仰
ttp://kr.dic.yahoo.com/search/enc/result.html?pk=12345400
大倧教
純粋な檀君宗団の中ひとつの大倧教は日帝強制占領期間の下羅浮ネどによって
組職された。羅浮ヘ日帝の教団弾圧を避けて布教本部を満洲地方に移したし、
宗教活動といっしょに民族運動を展開した。8・15光復と一緒に教団はソウル
に移して来たし、ひととき韓国の6大宗教の中一つで教勢が成長したが現在は
弱い。教経で《三一神誥》がある。
檀君教
羅浮ニ一緒に檀君教を立てた鄭薫謨は檀君教を大倧教で直す時これに反対して
檀君教名を固守すると言いながら大倧教と割れた。その後檀君教は朴泳孝と結
託、朝鮮総督府の公認を受けたりした。しかし鄭薫謨の死亡後活動はほとんど
なかった。
- 7 名前:名無しさん 投稿日:2005/09/15(木) 21:43:03 ID:zUf3Huc2
- アジア歴史資料センターで大倧教の情報がないか探してみました。
各国ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第一巻 18.満州国
(各国ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第一巻)
レファレンスコード:B04012535800
p.4 昭和2年6月の調査
大倧教は「教会又は寺院数」8、「信徒数」2,104。
キリスト教が18,700だからかなり少ない。
p.19 昭和2年6月の調査
龍井村大倧教区
大教主羅蕪凾ェ不逞団に加入したるため大正九年以来教勢衰退有名無実の状
態に在り。
仲坪大倧教堂
大正九年寧古塔本部より□[金?]竜なる者□布教せしに始まり□□□□しつ
つありしか目下振るわず
大汪清大倧教
大正十五年六月治安妨害なりとて支那側より解散を命ぜられん□たるか哀願
の結果免れたるも信徒減少教勢振はず
p.50 昭和7年6月の調査
龍井村大倧教
教主羅蕪凾ェ不逞団に加入したる為大正九年以来教勢衰退有名無実の状態に
あり。
第三章 満州ニ於ケル朝鮮人ノ教育及宗教ニ関スル状況
(在満朝鮮人概況 昭和8年度)
レファレンスコード:B02130035400
第二節 宗教状況
元来朝鮮人には固有の宗教と称すべきものなく...是等の準宗教と雖、殆ん
ど外来教の折衷又は模倣に過ぎず。...唯檀君教のみは近世朝鮮の神話奇説に
基きて開教せられ、之が別派に大宗教あり。
朝鮮人の満洲移住と共に、其の信奉する宗教も亦之に随伴して移入せられた
るも、元来朝鮮人は宗教に対して冷淡なるに加え、移住者の大多数は貧困者に
して辛うして、其の日の生計を追ふの徒なるを以て、信仰生活に顧みるの余裕
ある者極めて少なき結果、宗教の発展亦見るべきもの殆んど無し。唯此間に当
り独り異彩を放つものは基督教にして...
...準宗教又は宗教類似団体として取り扱はるるものの中、間島以外の南北
満洲には天道教、侍天教、済愚教及普天教の如きもの相当行はるるが如きも、
未だ組織的布教運動として著はるるもの殆んど無く、一般朝鮮人も其の信仰を
表白するを好まず、且儀式其の他の行事も多く捨てて顧みられざる状態なる為、
信徒数を調査すること実際上困難なるが、唯間島地方に在りては是等教派の布
教運動相当著名なるものあるを見る即ち同地方に行はれるる準宗教は天道教、
侍天教、元宗教、大倧教の各派にして、就中元宗教及大倧教の両派は教勢甚振
はず、夫々約八〇名及四〇名の信徒を有するに過ぎず殆んど有名無実の状態に
在るも...
第一項 南満地方 [言及無し]
第二項 間琿地方
一、間島総領事館管内
又朝鮮人固有の宗教類似団体として天道教、侍天教、大倧教、元宗教及仏教、
儒教等あるも是等は何れも、教勢振はず又は殆ど有名無実の状態にあるもの多
く、現在に於て何等積極的活動を為し居るものなく、...
第三項 北満地方 [言及無し]
第四項 東蒙地方 [言及無し]
いずれも「各宗派別信徒数調」に大倧教の記載なし。大倧教弱いですね。昭和
に入っているからかな。この頃になると共産主義者が多いし。
- 8 名前:名無しさん 投稿日:2005/09/23(金) 14:02:12 ID:eaAQ1sA2
- 清の太宗ホンタイジの本名はヘカンだと言う人がいて、ソースを聞くと三田村
泰助『明と清』だと言う。242-243ページから引用。
スレとは聡明を意味した。かれは本名をヘカンといったが、母が海西エホの
国王の娘であったので、ホンタイジとよばれた。この名は、モンゴル語で王
子のことをさすが、その語源は中国語の皇太子から出たとされる。
三田村先生がこう断定しているのに、他の概説書でヘカンの名が見えないのは
妙だ。ホンタイジは欧米で誤って Abahai と呼ばれてきた関係で、名前につい
てはいろいろ研究がある。
Stary, Giovanni: "The emperor "Abahai": Analysis of a Historical
Mistake," Central Asiatic Journal, 28, Nos. 3-4 (1984), pp. 296-9
が詳しい。
Pang, Tatiana A., Stary, Giovanni: "New light on Manchu
historiography and literature," Wiesbaden : Harrassowitz in K. , 1998
も若干言及している。
『明と清』は昭和44年出版ととても古いので、その後何らかの形で決着がつい
たのかもしれない。それはともかくこんな概説書では話にならないので、三田
村先生の論文を漁ってみた。
ちょっと長いけど
三田村泰助、『再び清の太宗の即位事情に就いて』、「東洋史研究」第7巻
(1)、pp.1-19、1942年
から引用。
扨てこゝらで太宗皇太極の名に就いて考えねばならぬ。太宗實錄によると、
太祖が偶然にも第八子に皇太極といふ名をつけたが、支那では儲君を皇太子
といひ、蒙古では位を繼ぐものを皇太極といつて居る。今太宗が汗位に即い
た事を思ふと、その命名の時既に暗默の内に天意がかうなることを豫定した
のであらうとお上手を述べて居る。然し本當の名は皇太極ではなかった樣で
ある。明の陳仁錫の山海紀聞によると、「黄旗下是喝竿。老奴第四子也。老
奴死。喝竿立。奴衆稱爲汗」とある。この通りであれば太宗の本名は皇太極
ではなくては喝竿 hekan といふ事になる。この事實は先年和田先生から教
示されたのであつたが、私は他に證據がないので少し疑問を抱いて居たが、
今度李朝仁祖實錄 を見ると、太祖の沒した時にこの前後の情報を齎した平
安監司の馳啓がのせてあつて、その文中「奴酋死後。第四子K還勃列承襲」
と記して居る。K還勃列は hekan beile (貝勒) で陳仁錫の記述に合する事
になり、太宗の本名は通說 の皇太極ではなくえてヘカンである事が確かめ
られた。さうすると皇太極はどうなるか。この名稱が當時建州内部で用ゐら
れて居た事は確かで、朝鮮の記錄 に洪太主・弘太市・紅歹是と寫して居る
事によつて知り得る。その故に hong taiji は太宗の通稱であつたらうと思
ふ。この言葉は元来蒙古語から轉化した詞で、蒙古では王族の子弟を指して
用ゐた言葉で王子の意味である。太宗が特にホンタイジと呼ばれる理由はあ
るので、彼の母の姓は葉嚇納喇氏で名は孟古哲哲 Monggojeje (mongo は蒙
古、jeje は姐姐の音寫) と稱した。彼女の里方の葉嚇納喇氏はその始祖は
土默特 tumet 姓の蒙古人で、それが海西女直族の納喇氏を滅し、その姓を
冐したので、謂はゞ蒙古系女眞貴族の家柄である。從つてモンゴジエジエ生
む所の太宗を建州部衆が本名ヘカンと云はずに、蒙古の王子を意味するホン
タイジを以て呼び慣はしたものと考へられる。既に記した如く當時の女眞族
の上流社會は蒙古文化が風靡していたのであるから、この通稱から推察する
と、太宗の貴公子振りはその出自教養武勇等、凡ての點で太祖の他の諸子を
凌いだ壓倒的存在であつた事が窺へよう。そして太宗の中の文字の素質は一
面母の系統を受けついだものと思へる。
念のため該当する李朝実録の記述を探す。とりあえず索引が役に立たないこと
がよくわかった。最初にヌルハチの死が報告されたところからずっとページを
追っていると見つかった。仁祖実録 巻十四 四年丙寅十月癸亥の記事。
平安監司尹暄馳啓曰。唐将徐孤臣言。賊将劉愛塔。開原之人。而早年被擄者
也。使㺚[犭達]子李姓者。持諺書出送曰。奴酋死後。第四子黒還勃烈承襲分
付。先搶江東。以除根本之憂。次犯山海關寧遠等城云。
こんな伝言ゲームが信用できるのか。
念のため満洲語辞典で hekan を引いてみたが載っていない。母音調和してい
ないからモンゴル語からの借用でもない。満洲人の名前は特に意味がないこと
が珍しくないけど。
わずか二例にすぎない hekan を hong taiji より優先するのはホンタイジが
人名っぽくないから。モンゴル語の qung tayiji も称号で、本名とは言いが
たい。でも上の二例だけでは本名と断定するには不十分だと思う。
- 9 名前:名無しさん 投稿日:2005/09/28(水) 20:17:31 ID:qfxg60zs
- NAVERのjpn1_rok0氏などが、高麗王のモンゴル人濃度を 1 - 0.5^(n-1) (n>1)
で計算していたけど、これは正しくない。モンゴル皇室から妃をもらっても、
子供ができるとは限らないから。というわけでネタにマジレスしてみるテスト。
で、検証しようと思ったのに手頃な史料がない。『高麗史』世家の各王の冒頭
にでも母親が書いてあるかと思ったら、あなだらけ。仕方がないので山川の世
界各国史シリーズの『朝鮮史』を使う。武田幸男による「第三章 高麗王朝の
興亡と国際情勢」の153ページに系図が載っている。ついでに王妃の名前は
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/kouraikeizu2.html
で補う。
1. 忠烈王 -- モンゴル人度: 0%、父: 元宗
2. 忠宣王 -- モンゴル人度: 50%、父: 忠烈王、母: 斉国大長公主忽都魯掲里迷失 (クトルグケルミシュ、フビライの女)
3. 忠粛王 -- モンゴル人度: 75%、父: 忠宣王、母: 懿妃也速真
4. 忠恵王 -- モンゴル人度: 37.5%、父: 忠粛王、母: 明徳太后洪氏
5. 忠穆王 -- モンゴル人度: 68.75%、父: 忠恵王、母: 徳寧公主亦憐真八剌 (イリンチンバル)
6. 忠定王 -- モンゴル人度: 18.75%、父: 忠恵王、母: 禧妃尹氏
7. 恭愍王 -- モンゴル人度: 37.5%、父: 忠粛王、母: 明徳太后洪氏
ということで、モンゴル人度最高は忠粛王、ついで忠穆王という結果となった。
高麗人妃の出自はわからないので、とりあえず100%高麗人と仮定した。歴代高
麗国王はモンゴルの公主をもらっているけど、子供ができない場合が多く、意
外とモンゴル人度が低い。それでも桓武天皇の百済人度とは比較にならないけ
ど。
- 10 名前:名無しさん 投稿日:2005/10/06(木) 22:02:01 ID:ZbOubb0M
- 上述の山川の『朝鮮史』に執筆していた武田幸男は、たしか朝鮮古代史が専門
で、高麗時代は専門外だったと思う。『史学雑誌』の「回顧と展望」を見ても、
本当に高麗を研究している人がいない。それが概説書にも現れているというこ
とか。でも、武田氏は、杉山一派の「大元ウルス」という用語を使ってみたり、
巻末の文献紹介には載っていないけど、森平雅彦の論文を参考にしていそうな
記述があったりして好感が持てる。
旧総督府の前スレに延々と載せた「大清皇帝功徳碑」、通称「三田渡碑」につ
いて続報が入った。
ttp://www.banner4every1.com/cgi-bin/test/read.cgi/exkorea/1054380199/6-12
以前は鴛淵一氏の1928年の論文「清初に於ける満鮮関係と三田渡の碑文」を利
用したが、内容にかなり問題があった。今日、たまたま
加藤直人、「奎章閣および三田渡碑瞥見記」『満族史研究通信』第10号、173-176頁 2001年3月25日
を読んで、
成百仁、「三田渡碑滿洲文」『東亞文化』第9輯、115-148頁 1970年
という論文の存在を知った。成百仁は満学の世界では結構有名な先生らしいが、
私は朝鮮語がほとんど読めないので詳しいことは知らない。
また、加藤の報告によれば、
近年、中国第一歴史檔案館所蔵内国史院「天聰四年檔」が公開され、その天
聰四年十二月二十八日の条にその原文が記されていることがわかり (略)
とあり、脚注に
中国第一歴史檔案館編『清初内国史院満文檔案訳編(上) 天聰朝、崇徳朝』(北京・光明日報出版社, 1989年10月) 448〜450頁
と書いている。
大阪大学所蔵檔案史料目録
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/dangan.html
によれば、阪大の附属図書館が所蔵しているらしい。OPACではヒットしないけ
ど。しかし『清初內國史院滿文檔案譯編』の「譯編」の文字が気になる。本の
体裁がわからないけど、漢訳だけ載っているなら最悪だ。
成の論文はすぐに入手できた。漢字ハングル交じり文。もう少し漢語を漢字で
表記してくれればどうにか読めていたような雰囲気だ。
- 11 名前:名無しさん 投稿日:2005/10/29(土) 21:55:17 ID:AcEF4plI
- 成百仁の論文はぼちぼち解読中。野暮用が多くてなかなか進まないけど。
ついでに成論文中で言及されていた文献を二つ入手。
一つ目は
W.R. Carles: "A Corean Monument to Manchu Clemency," Journal of the
China Branch of the Royal Asiatic Society Vol. XXIII, New Series
No.1, 1888, pp.1-8
100年以上前の雑誌はさすがに傷みがひどい。これは漢文の英訳。この翻訳を
手伝った Fraser という人は、
M. Forbes A. Fraser: "Tanggu Meyen and other Manchu reading
lessons," London, 1924, pp.174-183
という単行本に
The Manchu Part of a Monument Inscription in Corea in Chinese,
Manchu, and Mongol.
というタイトルで満文の英訳を掲載しているらしいが、こちらは入手が容易で
ない。
二つ目は
金芳漢、「三田渡碑蒙文에 關하여」『東亞文化』第4輯、1965年、59-96頁
その名の通りモンゴル文の解釈を行っている。モンゴル文のローマ字転写、総
訳と訳注、朝鮮語訳 (意訳?)、漢文の原文、日本語訳、満文大意という構成に
なっている。日本訳の原文はモンゴル語のようだ。ちょっと妙な言い回しがあ
るけど便利。金芳漢は言語学者でアルタイ論者。
原文を収録しているという内国史院檔についてだが、
柳澤明、「『内国史院档 天聡7年』の訳注をふりかえって」『満族史研究』
3、2004年、204-208頁
によれば、『清初内国史院満文檔案訳編(上) 天聰朝、崇徳朝』はやっぱり漢
訳のみの掲載で、しかも生の檔案によくある修正・改竄の類をまったく反映し
ていないらしい。一番面白いところを無視するなんてどういうつもりなんだか。
『天聰七年檔』を出した連中が訳注を出さないかと思って調べてみたが、
清朝満洲語档案資料の総合的研究
ttp://www.toyo-bunko.or.jp/research/touhokuajiaken/shinchomanshugo.html
によれば、現在『天聰八年档』と『天聰五年档』の作業中ということで、天聰
四年はまだのようだ。今のところは、自分で直接原文にあたらないといけない。
大型コレクション「中国第一歴史档案館所蔵歴史档案史料」について
ttp://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2303/kusunoki.html
にあるように、国内にも何ヶ所かマイクロフィルムを所蔵している場所がある。
さてどうしたものか。
- 12 名前:名無しさん 投稿日:2005/10/30(日) 16:15:48 ID:TkcEUKTg
- また全然話が変わるけど、高麗王のモンゴル名の復元を試みる。
高麗王のモンゴル名は、『高麗史』や『高麗史節要』に「蒙古諱」として載っ
ている。また、元史やその他の史料にも若干出現する。「蒙古諱」と言っても、
実態はチベット語やサンスクリットの借用だったりする。これはチベット仏教
の影響だけど、サンスクリットはウイグル語仏典からの流入したらしい。結構
原形をとどめていないことが多くて、erdeni の語源が ratna と知った時には
驚いた。
しかし復元は大変。『元朝秘史』や『華夷訳語』のように漢字を特殊記号的な
使い方をして厳密に表記しているのは例外で、大抵はかなりいい加減。清代以
降の漢字表記は、Hepburn を「ヘップバーン」と表記しているとすると、元代
のそれは「ヘボン」と写している感じ。正確さはともかく、どちらの方が復元
が難しいかは言うまでもない。
そういうわけで、元の言語に精通している人が当時の漢字音を元に推定したり、
一部の対訳史料を使ったジグソーパズルを行ったりしている。私のような門外
漢はエロい人の研究を使う他ない。
ちなみにモンゴル語表記の漢字音は朝鮮語のではなく北京語、という呼んでい
いのか知らないが、とにかく元代の北方音。支那で音訳して高麗に持ち込んだ
ということだろうか。
問題のエロい人の研究だが、これがあまりない。高麗王は普段は諡号で呼ばれ
るし、諱を紹介することがあっても、大抵は中国風のものだけ。使える資料は、
古いものでは、白鳥倉吉の「『高麗史』に見えたる蒙古語の解釈」がある。初
出の雑誌がどれだったが忘れたけど、全集の第三巻に収録してある。(393-484
頁) もう一人、岡田英弘が『モンゴル帝国の興亡』中で高麗王をモンゴル名で
呼びまくっている。(100-105頁) これはモンゴル帝国の影響を強調するという
意図があってのことだろう。しかし概説書なのでカタカナ表記だけ。カタカナ
からチベット語を復元できるほどの知識は私にない。この部分の元ネタは、
岡田英弘、「元の瀋王と遼陽行省」『朝鮮学報』14、533-544頁 1959年10月
岡田のかなり初期の論文だけど、もうこのころからモンゴル名を使っている。
でも漢字にカタカナでルビを振っているだけだから使えない。で、使えそうな
論文はこれだけ。
OKADA, Hidehiro: "The Koreans in Manchuria in the Yuan times" 『韓国
学報』第5期、181-200頁 1985年12月
『韓国学報』は韓国にも同じ名前の雑誌があるけど、台湾で発行されているも
の。かなり入手困難。
確か「元朝秘史の成立」か何かの論文に書いていたけど、岡田英弘はモンゴル
名でも借用元の言語の綴りを復元する方針らしい。私は一応乏しい知識を使っ
てモンゴル語綴りを作ってみることにする。
以下、「韓.」は岡田の英語の論文、「朝.」は朝鮮学報の論文、「モ.」は概
説書。「白鳥 n.」は白鳥の論文、n は小項目の番号とする。参照している辞
書は小沢重男の「現題モンゴル語辞典」。チベット語の辞典は
ttp://www.nitartha.org/cgi-bin/find
- 13 名前:名無しさん 投稿日:2005/10/30(日) 16:17:10 ID:TkcEUKTg
- 1. 忠宣王 益智禮普化 イジル・ブハ Ijil Buqa
モ.はイジル・ブハ、朝.はイジルブハ、韓.は Ijil Buqa。白鳥 14. は ijir
buqa 「灰色の牡牛」と解釈。ijil は「全く同じの、一対の」という意味で、
用例 изил морь は「毛色の同じ二匹の馬; 互いに仲のよい二匹の馬」とある。
人名としてあまり意味が通らない気がするが、他に候補がない。
2. 忠粛王 阿剌忒訥失里 ラトナシュリー Aradnashiri
モ.はラトナシュリー、朝.はアラトナシリ、韓.は Ratnaśrī。白鳥 3. は
ratnah śri 宝・吉祥とする。これは問題ないだろう。サンスクリットは
Ratnaśri だが、r が立たないモンゴル語では母音が追加される。音節末の t
をモンゴル文字転写に従い -d にすると、Aradnashiri というところか。
3. 忠恵王 普塔失里 ブッダシュリー Budashiri
モ.はブッダシュリー、韓.は Buddaśrī。白鳥 11. は buddha śri 仏陀・吉祥
とする。これも問題なし。サンスクリットの Buddhaśri をモンゴル文字風に
すれば Budashiri といったところか。
4. 忠穆王 八思麻朶兒只 パドマドルジ Padmadorji
モ.はパドマドルジ。韓は Padma rdo rje。白鳥 26. は 'phags-ma rdo-rje
とする。rdo-rje (> Mon. dorji) が金剛などはいいとして、'phags-ma が問
題。'phags が高僧・神仙で、ma が女性の語尾とする。白鳥は、元史順帝至正
四年に「特授八禿麻朶兒只征東行省左丞相、嗣高麗國王」とあることについて
は、さらっとサンスクリットの padma 蓮華という。チベット語音訳は pad ma
だろう。白鳥は同じ王に名前に別々の解釈を与えているが、高麗史の方を間違
いと見るべきだろう。岡田英弘は Padma rdo rje (八思麻朶兒只) とする。
Padma がサンスクリットで rdo rje がチベット語のつもりだろう。しかし
「思」から -d という音を復元するのはかなり無理があると思うのだが。
5. 忠定王 迷思監朶兒只 ミスキャブドルジ ???
モ.はミスキャブドルジ、朝.はミスゲムドルジ、韓は Mi skyem rdo rje。白
鳥 26. は miśig kams rdo-rje とする。miśig 誤りなき、kams 健全とするが、
かなり怪しい。辞書は mi shigs を indestructible とする。kams は不明。
mi skyem という岡田の解釈だが、mi は否定あるいは「人」、skyem は「飲む」
ということでいいのだろうか。チベット語を全く知らないので何とも言えない。
それに、mi skyem だとミスキェム、後続の男性音に引きずられたとしてもミ
スキャムとなりそうなものだが、最新のモ.ではミスキャブとし、-b で終わら
せているのも気になる。辞書を見ると mi skyod rdo rje がカルマパ8世らし
い。現在のラサ音で Mikyö Dorje となるこれが正解じゃないのかな。
6. 恭愍王 伯顔帖木兒 バヤン・テムル Bayan Temür
モ.バヤン・テムル。朝.バヤンテムル。韓.Bayan Temür。白鳥 7. bayan 富
temür 鉄。ありふれた名前の組み合わせ。これは問題ない。
- 14 名前:名無しさん 投稿日:2005/10/30(日) 16:18:00 ID:TkcEUKTg
- ここからは王族。
7. 闊闊帖木兒 ココテムル Köke Temür
朝.ココテムル、韓. Köke Temür。永寧公綧の第二子。王綧は王族で人質とし
てモンゴル帝国に送られた者。青・鉄の意。同じ名前の有名人がいるし、これ
は問題ない。次の弟もそうだが、二代目にしてもう中国風の名前を失ったよう
だ。
8. 兀愛 ウゲ Üge
朝.はウアイ、韓.は Üge。王綧の第三子。ウアイでは意味が通らないのでウゲ
に改めたのだろう。üge は「言葉」を意味するが、人名に成りえるのだろうか。
9. 完澤禿 オルジェイト Öljeyitü
モ.オルジェイト。韓.Öljeyitü。中国名は王ロ。öljeyitü は「幸福ある」の
意。これは問題ない。しかし用例が豊富になければ完澤から öljei を復元す
るなんて無理だ。ö は現代モンゴル語では「ウ」をあてるのが普通だが、岡田
は「オ」とすることが多い。でも川 mören を「ムレン」と書くけど。まあ、
発音については歴史的変遷以外にも方言差があるから深入りしないことにする。
10. 徳寿 デシュ Deshü
朝.はデシュ。韓.は Bde bzhugs。オルジェイトの息子だが瀋王位を継がなかっ
た。徳寿は字面だけ見ていると中国名としていけそうだが、岡田はまたものす
ごいチベット語をあてている。bde が「幸せ」、「平穏」。bzhugs が「いる」
「住む」といった意味らしい。自信はないが。
11. 篤朶不花 トクトアブハ Toghtugha Buqa。
朝.はトクトブハ。韓は Toghtogha Buqa。デシュの子でオルジェイトの孫。子
供のいない恭愍王の後を狙っていたが果たせず、モンゴル帝国が明に支那から
追われて混乱する中、おそらく満洲あたりで死亡した。モンゴル名のみで中国
風の名前は記録にない。
後半の buqa は良いとして、問題は「トクトア」。私はモンゴル語文語で to
γtaqu と綴り、現代語で тогтох となる動詞「定まる」だと思うのだが。こ
れは割とよくある名前だから。岡田の言う γ であれば母音が前後に来ると弱
化して「トクトア」と綴るのは分かるが、意味が分からない。
12. 塔思帖木兒 タス・テムル Tas Temür
モ.はタス・テムル。朝.はタステムル。韓.は Tas Temür。徳興君。忠宣王の
庶子。モンゴル帝国が恭愍王の代わりに擁立しようとして失敗した者。こいつ
もモンゴル名しか知られていない。
Temür が鉄なのは問題ない。Tas の意味はなにか。辞書を見ると 1. はげたか、
2. 完全に (副詞)、3. はげしく (副詞)、4. ドカーン (擬音語) があるが、
どれもふさわしくない。むしろチュルク系言語で石を意味する単語だと思うの
だが、それだと Tas よりも Tash とすべきだと思う。
- 15 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/05(土) 23:03:31 ID:KFx6UIVE
- 三田渡の碑文について、内国史院档をマイクロフィルムで確認した。まずはじ
めに『清初内国史院満文檔案訳編(上)』を見て関連記事を探す。この段階で
>>10の加藤直人の報告に騙されているのに気付いた。該当年は天聰四年ではな
く崇徳四年だ。天聰四年では、そもそもまだ二度目の朝鮮征討をやっていない。
訳編を眺めたところ、確かに崇徳四年十二月二十八日の条に碑文の写しが記載
されている。他のページも眺めていると、崇徳四年十一月初六日の条にも碑文
に関係する記述を見つけた。ただし、内国史院档には欠落が多く、崇徳年間の
最初の四年では、元年、二年の三月から十二月、四年の一月から三月、五月か
ら九月の記事がない。この間に碑文に関して動きがあった可能性が残っている。
加藤は、
碑文解読問題に一応の決着をみたようである
と書いている。確かに碑文の欠落部分も載っている。この部分は鴛淵が
___ ___
bederecere ? ? emu(?)
とし、成百仁の調査でもやはり判読不能で、Fraser の調査を使って
bederecere go[roki] [ama]si emgeri
と補完したものに、満洲語として不自然な表現としている。内国史院档には
bederecere gojime julesi emgeri
後退する ばかりで 前に 一歩
とある。これが正解だろう。どうやら Fraser も脳内補完していたらしい。た
だ、内国史院档で何でも解決できるかというとそうではなく、判読できない部
分もあるし、何より碑文の最後の部分が完全に欠落している。これについては、
そのうち碑文全体を再検討することにする。
以下は内国史院档の該当部分の転写と傍訳。改行は原文にあわせてある。[ ]
は判読不能部分の補完、### は原文の長い空白をあらわす。皇帝に対する敬意。
原文は圏点がよく見えない部分が多いが、意味が通るように脳内補完している。
崇徳四年十一月初六日の条
○ice ninggun de. fulgiyan singgeri aniya: ### enduringge han amba cooha gaifi
初 六(日) に、 丙 子 年 聖 ハン(が) 大 兵(を) 率い
coohiyan gurun i wang lidzung be j[a]i dasame dailame genehede. lidzung ini beye
朝鮮 国 の 王 李倧(仁祖)を また再び 征討しに行った時、 李倧 自ら
nan han san i hecen de kabufi. ini juse sargan gaibufi. jiyangjiyūn cooha [--]
南 漢 山 の 城 で 囲まれ、彼の子供たち・妻(を)取られ、将軍 軍 ???
irgen gukume hamika manggi. wang lidzung nan han san hoton ci wasifi. daicing gurun i
民 滅び ようとしたところ、王 李倧(は) 南 漢 山 城 より 降り、 大清 国 の
cooha i fidan de dosifi. ### enduringge han de hengkileme acaha manggi:
軍 の 陣 に 入り、 聖 ハンに 叩頭して 会った ところ、
gosin onco hūwaliyasun ### enduringge han: wang lidzung ni bucere be guwebufi:
寛 温 仁 聖 ハン(は)、王 李倧 の 死ぬ を 許し、
gaibuha juse sargan be subufi. gurun irgen be dahūme toktobufi gurun de wang
取られた子供たち・妻を 解き、 国 民 を 再び 鎮め 国 に 王(を)
fungnefi jihe. sambat gei gebungge bade wehe be folome bithe arafi tumen jalan de
封じてきた、サンバト・ゲイという名の場所で石を 刻んで 文(を)したため、 万代 に
algimbume wehei bei ilibuha be tuwanabume bithei hafan cibuhai. li ci fung.
伝えさせるため石の 碑(を)立てた(の)を見に行かせるため 文官 査布海、李 棲 鳳、
bilikto be bolori doroi takuraha elcin. boigon [jurgan] i aliha amban mafuta.
畢礼克図を 秋 礼の 使わした 使者、 戸部 の 承政 馬福塔、
dorolon jurgan i ashan i amban coohar. beidere jurgan i ashan i amba gioroi
礼部 の 参政 超哈爾、 刑部 の 参政 覚羅(傍系皇族)の
udahai sei emgi unggihe:
呉達海たちと共に遣わした。
- 16 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/05(土) 23:08:06 ID:KFx6UIVE
- 傍訳では満洲人の名前も漢字で表記した。漢文を検索する必要があるだろうし、
カタカナ表記はローマ字を参照すれば済むから。
判読不能部分の jiyangjiyūn cooha --- irgen を、訳編は「軍兵黎民」と訳
している。
三田渡をなぜか sambat gei と写している。訳編は242頁の注釈で
薩木巴徳盖: 満文音訳、史裁三田渡
としている。碑文は san tiyen du とあるし、内国史院档の写しも san tiyen
du だ。(ただし点が見えないので tiyan ととれる。)どうしてこんな妙な音訳
になったのか謎だ。
崇徳四年十一月初六日の条
○orin jakūn de. coohiyan gurun i wang li dzung: ### enduringge han i gung erdemu be
二十八(日)に、 朝鮮 国 の 王 李 倧(が)、 聖 ハン の 功 徳 を
tukiyeme bithe arafi bei ilibuha be tuwanabume unggihe bithei hafan cibuhai. li [ci] fung.
称揚するため文(を)したため碑(を)立てた(の)を見に行かせるため 遣わした 文官 査布海、李 棲 鳳、
bilikto se: bei de araha bithei songkoi koolame araha bithe gajime isinjiha . tere bei de
畢礼克図たち(が)碑 に書いた 文の 通りに 写して 書いた文(を)持ってきて着いた。その 碑 に
araha bithei gisun: [以下最後まで碑文の写し]
書いた 文の 言葉、
- 17 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/06(日) 23:09:01 ID:tkfChoEo
- >>16の史裁は史載の誤り。>>16の満文は崇徳四年十一月初六日ではなく崇徳四
年十二月二十八日の条。ついでに>>8の mongo は monggo の誤り。日本語の書
き間違いは一々書かない。
三田渡碑成立までの事情については、成百仁も金芳漢も役に立たない。彼らは
言語学者なので歴史には興味がないらしい。おかげで鴛淵一の論考から全く進
展がない。鴛淵は注に以下のように記している。旧字・旧仮名遣いは改めた。
燃藜室記述巻二十八「乱後時事」の條所引の丙子録及び李厦成弁誣疏の文左
の如し。
[丙子録]且於三田渡。使立勝捷碑。作彩閣設累層階。立崇碑其中。囲以垣墻。
使大提学李景奭製碑文。参議呉竣書。参判呂爾徴篆。清国及蒙古番文。並書
一碑。
[李厦成弁誣疏]時虜使徴文甚急。上初命張維李景奭趙稀逸。並一夜撰進。入
送虜中。適有中朝学士投虜者。以張維文鄭伯牽羊等語。本出諸侯相侵事。又
謂景奭所撰。亦甚疏略。於是虜人督令改撰。咆哮甚益。時維已没。上独召景
奭 諭曰。彼以此文。欲験向背。此正国家存亡所判。勾踐臣妻会稽。而終致
沼呉之績。他自自彊。唯在於予。今日之事。但当於文字。務中其意。毋致事
機転激。景奭 遂黽勉承命。
右の二文によって碑文の作成当時の事情が明らかであると思う。尚序ながら
云わんに、燃藜室記述巻二十八に、右の文の続きに、攷時撮要の文を引いて、
己卯。清使馬夫達呉超等来監督碑設。と云って居るが、之も亦清朝が如何に
此建碑に熱中して居たかと云う事を示す好い材料であると思う。此事は清三
朝実録、開国方略等の崇徳四年十一十二月の條にも記されて居り間違ない所
である。従って碑文に記さるる如く崇徳四年十二月八日此碑が建設さるるや、
清使は急ぎ帰って之を太宗に報告して居るのであって、其事も亦清三朝実録、
東華録及開国方略等の崇徳四年十二月庚戌(八日より二十日後に当る)に詳し
く記されて居るのを見て知り得ると思う。
清三朝実録という言葉に時代を感じる。それはともかく、私は確認していない
が、崇徳四年十二月二十八日の条は後の編纂史料にも使われたようだ。正確な
日付はわからないが、十一月の方もそうらしい。清史稿列傳の馬福塔にも
十一月,倧疏言立碑三田渡頌上恩,命與禮部參政超哈爾等往察視.
とあるった。私は原典を確認したことになるのだろう。
ついでなので、前半の李朝の野史の記述に関する鴛淵の解釈を載せておく。
李景奭等が此案文を認めた時は非常に苦しんだのであって、初め一度草案を
認めてそれを清朝に送ったが、学問有る支那人が清軍に投じ居りてその草案
に記す所の語句を非難し、且其文が疎略なりと評した為に俄かに之を改める
事になった。そこで朝鮮王仁祖は非常に心配して「清朝は此文によって我向
背を験せんとするのであるから、実に国家の存亡は正しく之に懸って居る。
宜しく勾踐会稽の恥を忍んで暫く清の云う所の如くして其意を迎えん事を努
むべし」との意味を臣下に諭したので、漸く李等も命に従ったと云われてい
る。
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