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- 15 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/05(土) 23:03:31 ID:KFx6UIVE
- 三田渡の碑文について、内国史院档をマイクロフィルムで確認した。まずはじ
めに『清初内国史院満文檔案訳編(上)』を見て関連記事を探す。この段階で
>>10の加藤直人の報告に騙されているのに気付いた。該当年は天聰四年ではな
く崇徳四年だ。天聰四年では、そもそもまだ二度目の朝鮮征討をやっていない。
訳編を眺めたところ、確かに崇徳四年十二月二十八日の条に碑文の写しが記載
されている。他のページも眺めていると、崇徳四年十一月初六日の条にも碑文
に関係する記述を見つけた。ただし、内国史院档には欠落が多く、崇徳年間の
最初の四年では、元年、二年の三月から十二月、四年の一月から三月、五月か
ら九月の記事がない。この間に碑文に関して動きがあった可能性が残っている。
加藤は、
碑文解読問題に一応の決着をみたようである
と書いている。確かに碑文の欠落部分も載っている。この部分は鴛淵が
___ ___
bederecere ? ? emu(?)
とし、成百仁の調査でもやはり判読不能で、Fraser の調査を使って
bederecere go[roki] [ama]si emgeri
と補完したものに、満洲語として不自然な表現としている。内国史院档には
bederecere gojime julesi emgeri
後退する ばかりで 前に 一歩
とある。これが正解だろう。どうやら Fraser も脳内補完していたらしい。た
だ、内国史院档で何でも解決できるかというとそうではなく、判読できない部
分もあるし、何より碑文の最後の部分が完全に欠落している。これについては、
そのうち碑文全体を再検討することにする。
以下は内国史院档の該当部分の転写と傍訳。改行は原文にあわせてある。[ ]
は判読不能部分の補完、### は原文の長い空白をあらわす。皇帝に対する敬意。
原文は圏点がよく見えない部分が多いが、意味が通るように脳内補完している。
崇徳四年十一月初六日の条
○ice ninggun de. fulgiyan singgeri aniya: ### enduringge han amba cooha gaifi
初 六(日) に、 丙 子 年 聖 ハン(が) 大 兵(を) 率い
coohiyan gurun i wang lidzung be j[a]i dasame dailame genehede. lidzung ini beye
朝鮮 国 の 王 李倧(仁祖)を また再び 征討しに行った時、 李倧 自ら
nan han san i hecen de kabufi. ini juse sargan gaibufi. jiyangjiyūn cooha [--]
南 漢 山 の 城 で 囲まれ、彼の子供たち・妻(を)取られ、将軍 軍 ???
irgen gukume hamika manggi. wang lidzung nan han san hoton ci wasifi. daicing gurun i
民 滅び ようとしたところ、王 李倧(は) 南 漢 山 城 より 降り、 大清 国 の
cooha i fidan de dosifi. ### enduringge han de hengkileme acaha manggi:
軍 の 陣 に 入り、 聖 ハンに 叩頭して 会った ところ、
gosin onco hūwaliyasun ### enduringge han: wang lidzung ni bucere be guwebufi:
寛 温 仁 聖 ハン(は)、王 李倧 の 死ぬ を 許し、
gaibuha juse sargan be subufi. gurun irgen be dahūme toktobufi gurun de wang
取られた子供たち・妻を 解き、 国 民 を 再び 鎮め 国 に 王(を)
fungnefi jihe. sambat gei gebungge bade wehe be folome bithe arafi tumen jalan de
封じてきた、サンバト・ゲイという名の場所で石を 刻んで 文(を)したため、 万代 に
algimbume wehei bei ilibuha be tuwanabume bithei hafan cibuhai. li ci fung.
伝えさせるため石の 碑(を)立てた(の)を見に行かせるため 文官 査布海、李 棲 鳳、
bilikto be bolori doroi takuraha elcin. boigon [jurgan] i aliha amban mafuta.
畢礼克図を 秋 礼の 使わした 使者、 戸部 の 承政 馬福塔、
dorolon jurgan i ashan i amban coohar. beidere jurgan i ashan i amba gioroi
礼部 の 参政 超哈爾、 刑部 の 参政 覚羅(傍系皇族)の
udahai sei emgi unggihe:
呉達海たちと共に遣わした。
- 16 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/05(土) 23:08:06 ID:KFx6UIVE
- 傍訳では満洲人の名前も漢字で表記した。漢文を検索する必要があるだろうし、
カタカナ表記はローマ字を参照すれば済むから。
判読不能部分の jiyangjiyūn cooha --- irgen を、訳編は「軍兵黎民」と訳
している。
三田渡をなぜか sambat gei と写している。訳編は242頁の注釈で
薩木巴徳盖: 満文音訳、史裁三田渡
としている。碑文は san tiyen du とあるし、内国史院档の写しも san tiyen
du だ。(ただし点が見えないので tiyan ととれる。)どうしてこんな妙な音訳
になったのか謎だ。
崇徳四年十一月初六日の条
○orin jakūn de. coohiyan gurun i wang li dzung: ### enduringge han i gung erdemu be
二十八(日)に、 朝鮮 国 の 王 李 倧(が)、 聖 ハン の 功 徳 を
tukiyeme bithe arafi bei ilibuha be tuwanabume unggihe bithei hafan cibuhai. li [ci] fung.
称揚するため文(を)したため碑(を)立てた(の)を見に行かせるため 遣わした 文官 査布海、李 棲 鳳、
bilikto se: bei de araha bithei songkoi koolame araha bithe gajime isinjiha . tere bei de
畢礼克図たち(が)碑 に書いた 文の 通りに 写して 書いた文(を)持ってきて着いた。その 碑 に
araha bithei gisun: [以下最後まで碑文の写し]
書いた 文の 言葉、
- 17 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/06(日) 23:09:01 ID:tkfChoEo
- >>16の史裁は史載の誤り。>>16の満文は崇徳四年十一月初六日ではなく崇徳四
年十二月二十八日の条。ついでに>>8の mongo は monggo の誤り。日本語の書
き間違いは一々書かない。
三田渡碑成立までの事情については、成百仁も金芳漢も役に立たない。彼らは
言語学者なので歴史には興味がないらしい。おかげで鴛淵一の論考から全く進
展がない。鴛淵は注に以下のように記している。旧字・旧仮名遣いは改めた。
燃藜室記述巻二十八「乱後時事」の條所引の丙子録及び李厦成弁誣疏の文左
の如し。
[丙子録]且於三田渡。使立勝捷碑。作彩閣設累層階。立崇碑其中。囲以垣墻。
使大提学李景奭製碑文。参議呉竣書。参判呂爾徴篆。清国及蒙古番文。並書
一碑。
[李厦成弁誣疏]時虜使徴文甚急。上初命張維李景奭趙稀逸。並一夜撰進。入
送虜中。適有中朝学士投虜者。以張維文鄭伯牽羊等語。本出諸侯相侵事。又
謂景奭所撰。亦甚疏略。於是虜人督令改撰。咆哮甚益。時維已没。上独召景
奭 諭曰。彼以此文。欲験向背。此正国家存亡所判。勾踐臣妻会稽。而終致
沼呉之績。他自自彊。唯在於予。今日之事。但当於文字。務中其意。毋致事
機転激。景奭 遂黽勉承命。
右の二文によって碑文の作成当時の事情が明らかであると思う。尚序ながら
云わんに、燃藜室記述巻二十八に、右の文の続きに、攷時撮要の文を引いて、
己卯。清使馬夫達呉超等来監督碑設。と云って居るが、之も亦清朝が如何に
此建碑に熱中して居たかと云う事を示す好い材料であると思う。此事は清三
朝実録、開国方略等の崇徳四年十一十二月の條にも記されて居り間違ない所
である。従って碑文に記さるる如く崇徳四年十二月八日此碑が建設さるるや、
清使は急ぎ帰って之を太宗に報告して居るのであって、其事も亦清三朝実録、
東華録及開国方略等の崇徳四年十二月庚戌(八日より二十日後に当る)に詳し
く記されて居るのを見て知り得ると思う。
清三朝実録という言葉に時代を感じる。それはともかく、私は確認していない
が、崇徳四年十二月二十八日の条は後の編纂史料にも使われたようだ。正確な
日付はわからないが、十一月の方もそうらしい。清史稿列傳の馬福塔にも
十一月,倧疏言立碑三田渡頌上恩,命與禮部參政超哈爾等往察視.
とあるった。私は原典を確認したことになるのだろう。
ついでなので、前半の李朝の野史の記述に関する鴛淵の解釈を載せておく。
李景奭等が此案文を認めた時は非常に苦しんだのであって、初め一度草案を
認めてそれを清朝に送ったが、学問有る支那人が清軍に投じ居りてその草案
に記す所の語句を非難し、且其文が疎略なりと評した為に俄かに之を改める
事になった。そこで朝鮮王仁祖は非常に心配して「清朝は此文によって我向
背を験せんとするのであるから、実に国家の存亡は正しく之に懸って居る。
宜しく勾踐会稽の恥を忍んで暫く清の云う所の如くして其意を迎えん事を努
むべし」との意味を臣下に諭したので、漸く李等も命に従ったと云われてい
る。
- 18 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/07(月) 22:53:43 ID:YGFjruuA
- 鴛淵が参照した漢籍のうち、清末の東華録を除き、開国方略と太宗実録を確認
した。使用したのは文海出版社が出版した「清朝開國方略」の影印本と新文豐
出版が出版した「大清太宗文皇帝實録」の影印本。しち面倒臭い文献考証のた
ぐいは本職に任せる。改竄する必要性がなさそうな部分だから、考証を省いて
もあまり問題ないだろう。
開国方略巻二十七太宗文皇帝崇徳四年に三田渡に関する記述があった。以下抬
頭・闕字の類は無視して適当に区切る。今回は何となく旧字で。
庚戊。朝鮮國王李倧立碑紀 恩 朝鮮國王李倧感太宗歸妻子。復其國土。樹
碑三田渡地方。頌上功コ。傳示萬世。先以其事入奏。太宗遣内院官察布海。
李棲鳳。弼禮克圖。戸部承政瑪福塔等。往觀之。錄其碑文進呈。其文曰。
以下碑文。ただし碑文の最後の一文「崇徳四年十二月初八日に立てた」が欠け
ている。
太宗実録は巻四十九に二箇所。こちらは最初から区切られている。
[十一月]巳未。先是。上率大軍再征朝鮮。圍國王李倧於南漢山城。俘其妻子。
軍民危迫。國勢垂亡。倧始出南漢山城。諸軍門納款。上特加矜宥。聴王還國。
歸其妻子。復其國土。輯其人民。封倧王爵如故。至是朝鮮王頌上功コ。樹碑
於三田渡地方。傳示萬世。以其事奏聞。上遣内院官査布海。李棲鳳。畢禮克
圖。偕戸部承政馬福塔。禮部参祭超哈爾。刑部参政宗室吳達海等。往觀之。
[十二月]庚戊。査布海等還自朝鮮。錄其碑文進呈。其碑文曰。
以下碑文。こちらも碑文の最後の一文「崇徳四年十二月初八日に立てた」が欠
けている。
ttp://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2303/kusunoki.html
で楠木賢道が言うように内国史院档は太宗実録の稿本の一つであると考えられ
る。要するに、内国史院档の崇徳四年十一月初六日の条と崇徳四年十二月二十
八日の条がそのまま太宗実録に使われたようだ。開国方略は十二月二十八日の
方に一つにまとめたのだろう。ということは、太宗実録の満文本にも碑文の写
しが載っていると予想される。
太宗実録の満文本については、
石橋崇雄: 「順治初纂『大清太宗文皇帝実録』の満文本について」『松村潤
先生古稀記念清代史論叢』、127-139頁、1994年
が調査している。石橋によれば、北京の中国第一歴史档案館に順治初纂の『大
清太宗文皇帝実録』満文本が所蔵されている。満文本を元に作られた漢文本と
比較すると、内容はほぼ同じだが直訳とはなっていない。問題の崇徳四年十一、
十二月が収められた巻は、1994年の時点で未発見という。それから10年以上経っ
ているから、発見されているかもしれないが、素人が気軽に見られる環境は依
然整っていないだろう。
漢文本太宗実録所収の碑文は、明らかに李景奭の元の漢文から採ったものだ。
鴛淵論文の漢文と比べると、何箇所か漢字が異なる部分があった。でも満文か
らの重訳でこれほど一致することはありえない。どの段階で満文が漢訳された
のか不明だが、碑文の部分だけは訳さずに元の漢文を写したことになる。
碑文とは関係ないけど、資料を漁っている最中に東北工程がらみの中国語の出
版物を何冊か見た。論考のタイトルを見ると、高句麗の帰属がどうのこうのと、
あからさまに政治的で笑った。論者の中に朴某とか朝鮮族っぽいのが混ざってい
るけど、連中は今の動きをどう思っているのだろうか。
- 19 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/11(金) 23:18:36 ID:7NzBsIRk
- >>15-16で察布海を cibuhai と転写していたが、cabuhai の間違い。モンゴル
語版を見ていて気づいた。>>18の「禮部参祭超哈爾」は「禮部参政超哈爾」の
間違い。
満文の太宗実録は手に入らないのに、モンゴル語版は入手できた。ハイラルの
内蒙古文化出版社 öbür mongγul-un soyul-un kebülel-ün qoriy-a というと
ころが出版している dayičing ulus-un maγad qauli (大清国の実録) という
シリーズの2、3巻が Taizung gegegen uqaγ-a-tu quvangdi-yin maγad qauli
(太宗文皇帝の実録) にあたる。前半が tngri-daca ǰayaγ-a-tu-yin arban
nigedüger on-aca degedü erdem-tü-yin terigün on nigendüger debter-ece
γuciduγar debter (天聰十一年より崇徳初年、第一巻より第三十巻)、後半が
degedü erdem-tü-yin terigün on-aca degedü erdm-tü-yin naimaduγar on
γucin nigedüger debter-ece ǰiran tabuduγar debter (崇徳初年より崇徳八
年、第三十巻より第六十五巻) となっている。少なくとも第3巻には、編纂時
期やその他の情報がまったく載っていない。あるのは目次だけ。
三田渡の碑文に関係があるのは後半。内国史院档、漢文太宗実録に対応する箇
所を見つけたので転写と傍訳を以下に示す。
崇徳四年十一月初六日の条 (p.433)
○siraγčin qonin edür. urida
黄陰の羊の(巳未)日、 先に
qaγan. yeke čerig-iyen abču. solungγ-a ulus-i dakiǰu
ハーン(が)、大軍(を)←自分の 率いて、朝鮮 国 を 再び
dayilar-a oduγsan-dur. vang li dzüng-ün bey-e
征討しに 行ったところ、王 李 倧の(が) 自ら
nan qan aγulan-u qota-dur qaraγdaǰu. gergei
南 漢 山 の 城 で 遮られ、 妻
köbegüd inu abtaγad. čerig ba. irgen siqamdaǰu ulus
子供たち(を)←彼の 取られ、 軍 と 人々(が) 圧迫され 国(が)
čönüküi-dür oyiraduγsan-u qoyin-a. li dzüng nan
なくろうとした 後、 李 倧(が) 南
qan aγulan-u qota-ača γarču. čerig-ün emün-e
漢 山 の 城 から 出、 軍 の 前 に
oruču iregsen-dür.
入って来た ところ、
qaγan. tusγayilan kesig kürtegeǰü aburaγad. vang-i ulus-tur inu
ハーン(が)特別に 恩(を)受けさせて 助け、 王を 国 に ←彼の
egegülǰü. gergei köbegün-i inu eyilegülüged ulus-i dakiǰu
帰らせて、妻 子供たちを←彼の 逃れさせ 国を 再び
soyurqaγad. irgen orqun-i inu toγtaga. li dzüng-i
承認し、 人々(が)隠れる(の)を←彼の 鎮めた。 李 倧を
mön kü vang bolγan ergügsen bölüge. egün-dür kürčü
まさに 王 として推戴したのであった。ここに
ireged. solungγ-a ulus-un vang
至って、朝鮮 国 の 王
qaγan-u güng erdem-i maγtan san tiyen du neretü
ハーンの 功 徳 を 称え 三 田 渡 という名の
γaǰar-a kösiy-e čilaγun bayiγulǰu. tümen üy-e-dür
場所 に 碑 石(を) 立て、 万 代 に
aldarsiγulsuγai kemen ayiladγaγsan-dur
名声を得させん と 奏上した ところ
qaγan dotuγ-a-du yamun-u tüsimel čabuqai. li si vung
ハーン(は) 内院 の 官 チャブハイ、李棲鳳
biligtu tan-i. sang-un yabudal-un yamun-u erkin tüsimel
ビリクトたちを、 戸部 の 最上位の官(承政)
mavuta. törü-yin yabudal-un yamun-u ded tüsimel čouqar.
マフタ、 礼部 の 次官(参政) チョーハル、
ǰasaγ-un yabudal-un yamun-u ded tüsimel törül-ün
刑部 の次官(参政) 親族(宗室)の
udaqai tan-luγ-a üǰegüler-e ilegebe.
ウダハイたち と 見させに 遣わした。
- 20 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/11(金) 23:19:41 ID:7NzBsIRk
- 崇徳四年十二月二十八日の条 (p.437から)
○čaγan noqai edür. čabuqai tan kürčü ireged. solungγ-a
白陽の犬の(庚戊)日、チャブハイたち(が)到着し、 朝鮮
ulus-ača qaγulǰu bičiǰü abču iregsen kösiy-e čilaγun-u
国 より 写し 書き 取って 来た 碑 石 の
bičig-i ayiladγabai. kösiy-e čilaγun-u bičig-ün üge
書 を 奏上した。 碑 石 の 書 の 言葉
[以下碑文の写し]
見ての通り漢文版と一致している。崇徳四年十二月二十八日の条はやはり内国
史院档に比べて簡略化されている。問題の碑文は、漢文と違って、石碑のモン
ゴル語原文と一致しない。ざっと見たところ、実録のは満文を直訳したようだ。
清朝側は碑文の満文と漢文は写しを取ったが、蒙文は無視した、ということか。
- 21 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/20(日) 22:54:19 ID:LcCKZ1DE
- >>19の天聰 tngri-dača ǰayaγ-a-tuは tngri-deče ǰayaγ-a-tu の誤り。出版
社 kebülel-ün qoriy-a も keblel-ün qoriy-a の間違い。
>>11で言っていた金芳漢の論文中の変な日訳は鴛淵のもの。本文に書いてあっ
た。道理で日本語が不自然なわけだ。傍訳をそのまま取って来たのだから。
今回は>>12-14の補足。
12. の塔思については Tas で良いようだ。杉山正明『モンゴル帝国と大元ウ
ルス』の転写を見ると、「思」は s (まれに z) を表し、sh とはならない。
sh を表したいときは「失」を使っている。実際239頁では塔思火魯赤に対して
Tas-qorči を与えている。
11. のトクトアについても Toghto'a 〜 Toghtogha で良いらしい。
ttp://laurencio.webz.cz/mongolxel/toli/nigucha/tr04.htm
によれば、元朝秘史にも Toqto'a が出てくる。Lomi 著 mongγul-un borǰigid
oboγ-un teüke の Naγusayinküü, Ardaǰab 校注、Čoyiǰi 審訂になる本も、
193頁で「禿禿哈」にモンゴル文字で toγtuγ-a の綴りを与えている。
最後に 10. 徳寿について。成宗テムル・オルジェイト・ハーンの夭折した皇
太子も同じ名前徳寿なのに気づいた。その解釈がどうなっているか調べてみた。
Hambis, Louis: Le chapitre CVII du Yuan che; les généalogies
impériales mongoles dans l'histoire chinoise officielle de la
dynastie mongole, 1945
この本に対する杉山正明の評価は以下の通り。『モンゴル帝国と大元ウルス』
収録「豳王チュベイとその系譜」の注7より引用。
ペリオの弟子のアンビスが『元史』巻一〇七宗室世系表の訳注のなかで、
『ムーイッズ』を利用している。しかし、たんに引用しているといった程度
で、豊富に引用されている『元史』『集史』といった当代史料との間で、充
分な検討作業がなされているとはいいがたい。同書の価値はむしろその豊富
な引用と人名のそれなりのローマ字化にこそあり、索引検索の工具としては、
またとない便利な書であるものの、これによってモンゴル王族の系譜研究が
それなりの帰結を見たとすることはできない。
Hambis は徳寿を Tö-cheou (*Däišū) とし、p.135 に詳細な注釈を載せている。
原文はフランス語なので私は読めない。計算機に入力して機械翻訳で英語に変
換してみる。が、入力しようにもペルシャ文字が読めない。仕方がないので、
ちょっと間抜けだがペルシャ文字の部分は [ペ] で示す。
- 22 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/20(日) 22:55:22 ID:LcCKZ1DE
- 1) Rašīdu-'d-Dīn (Blochet, II, 359, 1) le nomme [ペ] [ペ] Tīšī-ṭāīšī;
le Mu'izz donne quatre fils à Tämür: [ペ] [ペ] Qūīk-tāišī
(cor. Qūng-tāīšī), [ペ] [ペ] (cor. [ペ] [ペ]) Ġōng-Tēmǖr, [ペ] Ṭīšwū
et [ペ] [ペ] Maqābīlān(?). Ce dernier nom représente peut-être un
original skr. *Mahābala? Le Yuan che cite *Däišū au ch. 21,
19b. [Tö-cheou, "Longévité vertueuse", est un nom chinois; il y a
trois Tö-cheou différents dans le seul Yuan che (cf. San che
t'ong-ning lou, 33, 1a). Les Mongols devaient rendre コ tö par *däi,
si bien que je rétablirais le nom en mongol sous la forme *Däišū. Je
suis d'avis de lire le [ペ] de Rašīd comme *Täīšī. Mais, dans un autre
passage de Rašīd (Blochet, II, 584)), on a aussi des leçons [ペ] et
[ペ]. Enfin, le Mu'izz, dont la tradition se rattache le plus souvent
à celle de Rašīdu-'d-Dīn, écrit [ペ]; mais le ṭ- de Rašī est souvent
en valeur de d-. Je lirais la forme du Mu'izz *Däīšū, et rétablirais
chez Rašīd [ペ] *Dǟīšī, si tant est que d'autres mss. ne donnent par
*Dǟīšū; la finale du nom a pu passer à -ī sous l'influence du taiši =
太子 t'ai-tseu qui l'accompagne. Le *Qūik-tāiši du Mu'izz, à corriger
en Qūng-tāīšī, ne peut être que le résultat houang-t'ai-tseu, > mong
qong-taiši, porté par Tö-cheou. En écriture 'phags-pa, コ tö et 得 tö
sont transcrits dhiy, de même que 特 t'ö est transcrit thiy
(cf. Dragunov, dans Izv. Ak. Nauk, 1930, 796). Mais ces transcriptions
ne doivent pas nous faire illusion; elles représentent un système
théorique qui n'est pas celui usité en réalité fait, 特 t'ö est bien
employé pour Däi dans la transcription du nom de Däí-Säčän (cf. Yuan
che, 118, 1a), et nous devons attendre de même que コ tö soit rendu en
persan par däi. Enfin, le Maqābīlān du Mu'izz, inconnu des textes
chinois, est également cité par Rašīdu-'d-Dīn. On le trouve dans
Blochet, II, 359, 1, imprimé [ペ] Maqābalīn, sans indication des
leçons des mss., mais, à l'appendice, p.38, nous apprenons qu'il est
"restitué" (dans quelle mesure?) d'après un passage de La cité en note
p.585; cette note se rapporte à la p.584^2, où Maqābalīn est en effet
rétabli dans le texte d'après ce passage de La, et Blochet propose de
l'interpréter par le sancrit Maqābalī, "Qui a une grande force", avec
un -n final paragogique; il ne mentionne pas le Maqābīlān du
Mu'izz. En fait, en sancrit, le thème serait Mahābalin, et c'est le
nominatif singulier qui est Mahābalī; il n'y aurait donc pas lieu de
faire intervenir ici l'-n paragogique si fréquent d'ailleurs en
mongol. T'ou Ki, 77, 1a-b, a compilé une courte biographie de
Tö-cheou, -- P.P.].
続いて機械翻訳の結果。いくつか解析を間違えていそうな部分があるけどその
ままにしておく。意味はとれる。
- 23 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/20(日) 22:55:57 ID:LcCKZ1DE
- 1) Rašīdu-'d-Dīn (Blochet, II, 359, 1) names it [ペ] [ペ] Tīšī-ṭāīšī;
Mu'izz gives four wire to Tämür: [ペ] [ペ] Qūīk-tāišī
(cor. Qūng-tāīšī), [ペ] [ペ] (cor. [ペ] [ペ]) Ġōng-Tēmǖr, [ペ] Ṭīšwū
and [ペ] [ペ] Maqābīlān(?). Perhaps this last name represents an
original skr. *Mahābala? Does Yuan che quote *Däišū with ch. 21,
19b. [Tö-cheou, "Longevity virtuous", is a Chinese name; there are
three Tö-cheou different in only Yuan che (cf San che t'ong-ning lou,
33, 1a). Were the Mongols to return コ tö by *däi, so that I would
restore the Mongolian name in the form *Däišū. I am of opinion of
reading it [ペ] of Rašīd like *Täīšī. But, in another passage of Rašīd
(Blochet, II, 584)), there are also lessons [ペ] and [ペ]. Lastly,
Mu'izz, of which the tradition is generally attached to that of
Rašīdu-'d-Dīn, written [ペ]; but the ṭ- of Rašī is often in value of
d-. I would read the form of Mu'izz *Däīšū, and would restore at Rašīd
[ペ] *Dǟīšī, if as well is as other mss. does not give by *Dǟīšū;
could the finale of the name pass to -ī under the influence of taiši =
太子 t'ai-tseu which accompanies it. *Qūik-tāiši of Mu'izz, to correct
in Qūng-tāīšī, can be only the result, houang-t'ai-tseu, >
mong. qong-taiši, carried by Tö-cheou. In writing 'phags-pa, コ tö and
得 tö is transcribed dhiy, just as 特 t'ö is transcribed thiy (cf
Dragunov, in Izv. Ak. Nauk, 1930, 796). But these transcriptions
should not make us illusion; they represent a theoretical system which
is not that used actually done 特 t'ö are well employed for Däi in the
transcription of the name of Däí-Säčän (cf Yuan che, 118, 1a), and we
must wait just as コ tö is returned into Persan by däi. Lastly,
Maqābīlān of Mu'izz, unknown of the Chinese texts, is also quoted by
Rašīdu-'d-Dīn. One finds it in Blochet, II, 359, 1, printed [ペ]
Maqābalīn, without indication of the lessons of the mss., but, with
the appendix, p.38, we learn that it "is restored" (up to what point?)
according to a passage of the city in note p.585; this note is
referred to the p.584^2, where Maqābalīn is indeed restored in the
text according to this passage of, and Blochet proposes to interpret
it by the sancrit Maqābalī, "Which has a great force", with one -n
final paragogic; it does not mention Maqābīlān of Mu'izz. In fact, in
Sankrit, the topic would be Mahābalin, and it is the personal singular
which is Mahābalī; it would thus not be necessary to utilize here the
so frequent paragogic Mongolian -n besides. T'ou Ki, 77, 1a-b,
compiled a short biography of Tö-cheou, -- P.P. ].
長くなったが、要するに Hambis は「徳寿」を中国名と解釈し、「徳」字に
Däi (=Dei) という音を与え、Deishu とする。モンゴル文字の綴りは deyišu
といったところか。モンゴルの皇族が中国名では不自然と思うが。
- 24 名前:名無しさん 投稿日:2005/12/06(火) 22:25:18 ID:prXsfCGA
- >>13の Buddaśrī は Buddhaśrī の誤り。>>23の Deishu と deyišu は Deishü
と deyišü の誤り。
ついでだから李王家の祖先のモンゴル名も片付けてしまう。李朝の先祖につい
ては
池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」『満鮮史研究 近世編』
の分析が詳しい。でもこの人はとかく伝説を史実でないと片付けがちなので注
意が必要。でも史料を収集してくれているので便利。李朝の先祖については李
朝の太祖実録の最初に記述されている。この中に「蒙古諱」が出てくる。池内
宏はモンゴル名については特に何も言っていない。結論から言うと以下が私の
解釈。
度祖 李椿 孛顔帖木兒 Buyan-Temür
|- 李子興 塔思不花 Tas-Buqa
|- 咬住 (李天桂) Yoǰu
|- 桓祖 李子春 吾魯思不花 Ulus-Buqa
|- 太祖 李成桂
|- 完者不花 Ölǰei-Buqa
|- 那海 Noqai
1. 度祖 李椿 孛顔帖木兒 Buyan-Temür
李成桂の祖父。池内宏はその実在は認めるものの事績は創作とみなす。Buyan
は善行の意味。孛字をもって bo を表す例を知らないけど、他に候補がない。
2. 李子興 塔思不花 Tas-Buqa
李椿と朴氏の子で李子春の同母兄。李椿の死後後を継ぐもすぐに死亡。こいつ
は Tas-Buqa で問題ないだろう。
3. 咬住 (李天桂) Yoǰu
李子興の子。父の死後後を継ごうとしたが、幼かったので李子興の異母兄弟と
の間に家督争いが起こり、結局李子春が継ぐことになった。成人したら家督を
継ぐはずだった咬住は、李子春の後を李成桂が継いだのを恨んで無軌道な行動
に走り、最後は獄に下って殺されたと太祖実録にはある。
こいつの読み方は分からない。だいたい咬字には読み方が複数あるし、それら
しいモンゴル語の単語も見つからない。ただ、オゴデイの曾孫に同名の王がい
るので、例の Hambis の元史宗室世系表訳注を見てみる。やつは p.81 で
咬住 Yao-tchou (*Yoǰu)
とし、p.82 の注釈で以下のように記す。
8) Les sources musulmanes sont muettes sur ce personnage. Le Yuan che
mentionne (27, 9a), 7ème yen-yeou, 7ème mois (1320), un prince 告住
Kao-tchou (*Göǰü) que T'ou Ki (37, 6b, et 148, 53a) identifie avec
notre Yao-tchou. Si cette identification est juste, on devrait
peut-être adopter pour 咬 la prononciation moins usuelle kiao et lire
Kiao-tchou. [Il me paraît plus probable que 告 kao, inusité en
transcription, soit une faute de texte. -- P.P.].
8) The Moslem sources are dumb on this character. The Yuan che
mentions (27, 9a), 7th yen-yeou, 7th month (1320), prince 告住
Kao-tchou (*Göǰü) that T'ou Ki (37, 6b, and 148, 53a) identifies with
our Yao-tchou. If this identification is right, one should perhaps
adopt for 咬 pronunciation less usual kiao and read Kiao-tchou. [It
appears more probable to to me than 告 kao, uncommon in transcription,
is a fault of text. -- P.P. ].
あまり役に立たなかったが、とりあえず Yoǰu と解釈する。語義は不明。
4. 桓祖 李子春 吾魯思不花 Ulus-Buqa
李成桂の父。家督を兄の子から奪い取る。こいつの代に元の双城惣管府から高
麗に下った。こいつの事跡は李朝によって潤色されている可能性が高い。不花
Buqa はいいとして、吾魯思は国、国人の意味。西方にも同名のモンゴル人が
いた様な記憶がある。
5. 完者不花 Ölǰei-Buqa
李椿と趙氏の子。非嫡出。こいつの名前は問題ないだろう。
- 25 名前:名無しさん 投稿日:2005/12/06(火) 22:28:15 ID:prXsfCGA
- 6. 那海 Noqai
完者不花の弟。非嫡出だが、咬住が幼いので簒奪を企み、失敗して殺された。
こいつは犬の意味の noqai だろう。buqa もそうだが、モンゴルでは獣の名前
に特に否定的な意味はない。偶然、オゴデイ系の咬住の兄弟に那海がいるので、
一応 Hambis の解釈を載せておく。
p.81
那海 No-hai (*Noqai)
p.83
9) Les sources musulmanes ne donnent aucun renseignement sur ce
personnage. Le Yuan che le mentionne: 21, 1a, 7ème ta-tö, 1er mois
(1303), et 32, 17b, 1ère t'ien-li, 10ème mois (1328). Sur le nom de
Noqai, Noγai, cf. T'oung Pao, XXVII, [1930], Notes sur le Turkestan,
p.49, n.1. [Dans le texte de 1328, et dans un autre portant sur le
2ème mois de l'année suivante, le nom est écrit en réalité 那海罕
No-hai-han, *Noqai-qan, ou *Noqaiqan. Cf. T'ou Ki, 37, 6b; 148,
53a. -- P.P].
9) the Moslem sources do not give any information on this
character. Yuan che mentions it: 21, 1a, 7th your-tö, 1st month
(1303), and 32, 17b, 1st t'ien-li, 10th month (1328). On is the name
of Noqai, Noγai, cf. T'oung Pao, XXVII, [ 1930 ], Notes on Turkestan,
p.49, n.1. [ In the text of 1328, and another bearing over the 2nd
month of the following year, the name actually written 那海罕
No-hai-han, *Noqai-qan, or *Noqaiqan. Cf T'ou Ki, 37, 6b; 148, 53a. --
P.P ].
- 26 名前:名無しさん 投稿日:2006/04/23(日) 22:29:24 ID:vDyNvdvo
- 三田渡の碑文に関して、鴛淵一、成百仁、金芳漢とは別の論文を偶然見つけた。
崔鶴根「所謂「三田渡碑」의 滿文碑文註譯」『알타이語學論攷』、1983年
10月、8-37頁
原文は『国語国文学』49-50に掲載したもので、1970年9月とあるから、成論文
と同じ年だ。ざっと眺めてみたところ、鴛淵一の論文にしか言及していないし、
註釈も雑で、成論文より劣っている。ちなみに>>15で触れた欠字については、
崔鶴根は bederecere golome julesi と補完しており、一番正解に近い。
Korea Journal の Vol.45 No.3 Autumn 2005 に The Hwarang Segi
Manuscripts: An In-Progress Colonial Period Fiction という論文が載って
いる。著者は Ricard D. McBride II という人。この人も言っているように、
日本の学者は『花郎世紀』の真偽論争に全く関与してないどころか、そもそも
この本に言及してるものさえほとんどない。弘中芳男というおっさんが『東ア
ジアの古代文化』という雑誌に日本語訳を載せていたぐらいか。というか、おっ
さんの解釈には興味ないから原文を見せろと言いたい。
副題から分かるように McBride は否定論をとる。根拠はいろいろあるんだろ
うけど、この人は時代の合わない語彙に言及している。「風月主」と「正統」
の二例だけだけど。この議論は既に見たことがある。私にとって目新しかった
のは、本の所有者で真の作者と疑われる朴昌和に関する著者の推測ぐらいか。
朴が生前にその存在を公表されなかったことから、朴が小説として『花郎世紀』
を書き、それを広めるつもりもなかったと推測している。
- 27 名前:名無しさん 投稿日:2006/05/29(月) 23:02:32 ID:9s95kLPs
- 過去に集めた資料を今少しずつ整理している。今回は茶に関する二編。
鮎貝房之進、「茶の話」、『雜攷』第5輯、1932年11月
三品彰英、「朝鮮の茶」、『茶道』全集巻の一、1935年、261-294頁
もとは、例のキワモノ「高麗茶道」がらみで何かいい文献はないかと探した。
あれって invention of tradition ってやつでしょってことで、それを証明し
ようと思ったら、喫茶の習慣が断絶していることと、「復元」のいかがわしさ
を示せばいい。後者は直接「高麗茶道」を見ないことには難しそうだから、前
者に取り組もうとした。でも目ぼしいものがなくて、結局こんな古い文章にた
どり着いた。特に鮎貝の『雜攷』は、1930年代の出版物なのに和綴じ本で驚い
た。
まずは鮎貝の「茶の話」から。いかにも漢籍を嗜んだ昔の人で、どこから探し
出してきたのか分からないような文献をいろいろ引いている。現代人にはとて
もこんな芸当はできない。新羅から考証を始めて、高麗時代の隆盛に多くのペー
ジを割いているけど、性格の悪い私は、盛行した高麗時代よりも、李朝時代の
衰退に興味がある。「三、李朝の文献に現はれある李朝の茶」が私の期待に答
えてくれる。
李朝の文献に出てくる茶は考証がらみで、自分で飲んだものではない。與地勝
覧の土産に出てくる茶は、「稀に山中に産すると解すべきもので、恐らくは薬
物として載せたるもの」と思われる。様々な文献から立証されることには、当
時の文人に茶の知識がなく、一般から茶が忘れ去られていた。
荒っぽくまとめるとそんな感じ。最後に鮎貝は、李朝期の茶の衰退の原因を仏
教排斥に求めている。私もそうだろうとは思うんだけど、やっぱり具体的な証
拠がほしい。
続いて三品の「朝鮮の茶」。花郎の論文を読んだときも感じたのだが、三品は
文献の猟書の面で鮎貝に依存している。それはともかく、三品の論考は客観的
に評価しにくいので好みでない。花郎とインディアンの男子集会の比較も、神
話の比較もそうだ。ただ面白いだけで、妥当かどうか判断できない。
三品はほとんどを高麗時代に割いている。おまけに茶器の話になると芸術が全
然だめな私にはついていけない。私の欲しい情報はほとんど載っていない。
- 28 名前:名無しさん 投稿日:2006/06/01(木) 22:34:08 ID:HXexsa7g
- 今度は現代史。檀君関係。昔収集した佐々充昭の論文を読む。
佐々充昭は哲学博士でソウル大学大学院宗教学科に留学経験があるという。
ttp://www.ritsumei.ac.jp/records/cgi-bin/rbi.cgi?lng=J&rno=DRW0000000000000000000000500114
歴史学者ではないので、史学としてはどうなのよという感じがしないではない。
(檀君の歴史性とかそういうヨタ話ではなく、近代史の検証の方)。基本的に新
聞などを分析して思想を追いかけているだけで、事実関係の確認は他に依存し
ているようだ。確かに連中の主張は、史学としては全くのナンセンスなので、
思想史としてしか扱いようがないのだが。朝鮮系の文献をちゃんと日本の資料
で裏を取っているのか怪しい。朝鮮がらみの史料を追いかけていると感じるグ
ダグダ感がきれいさっぱり消えてしまっている。
そうは言っても『桓檀古記』を信じたりしているわけではないし、韓国に流布
する諸々の言説が、比較的新しいものであることを示すのには役に立つ。
その佐々だが、最近は「現代韓国における「新霊性運動」の展開」「韓国にお
けるウェルビーイングとヨガ・ブーム」といった論文を書いている。檀君関係
は区切りを付けたつもりなのだろうか。
手元には7つ論文がある。一番古いものから順に以下の通り。
「檀君ナショナリズムの形成」『朝鮮学報』第174輯、61-107頁、2000年1月
「韓末における檀君教の「重光」と檀君ナショナリズム」『朝鮮学報』第180輯、29-63頁、2001年7月
「韓末における「強権」的社会進化論の展開」『朝鮮史研究会論文集』第40集、183-213頁、2002年10月
「植民地期における朝鮮儒教会の活動」『朝鮮学報』第188輯、41-75頁、2003年7月
「植民地期朝鮮における檀君教の沿革と活動」『朝鮮史研究会論文集』第41集、203-227頁、2003年10月
「一九二〇年代「満州」における「大高麗国」建国構想」『國學院大學日本文化研究所紀要』第94輯、273-312頁、2004年9月
「亡命ディアスポラによる朝鮮ナショナル・アイデンティティの創出」『朝鮮史研究会論文集』>第43集、93-122頁、2005年10月
- 29 名前:名無しさん 投稿日:2006/06/01(木) 22:38:26 ID:HXexsa7g
- まずは「檀君ナショナリズムの形成--韓末愛国啓蒙運動期を中心に」から。本
文もそれなりに読めるけど、面白いのは注釈の方。先にこちらをいくつか抜き
書きする。
(21) 村山智順は『朝鮮の類似宗教』の「大倧教」の項目で、金廉白の神教
について記録している。しかし、その内容は大倧教と金廉白の神教とを故意に
混同させ、大倧教を淫祠邪教として、その創教の経緯を湮滅しようとした形跡
が見られる。(村山智順『朝鮮の類似宗教』、朝鮮総督府、一九三五年、四四六
頁)。しかし、李康五は金廉白の神教に関する基本資料として、この村山の記録
を用い、その結果大倧教の教理と金廉白神教の教理とを混同してしまった。現
在韓国での新宗教研究においては、この李康五の研究にならって、一般的に檀
君教 (大倧教) 創立の淵源が金廉白の神教にあると見なす傾向にあるが、金廉
白が檀君教と接触を持つのは先に述べたように檀君教と大倧教が分派して以降
の一九一七年のことであり、本来、羅浮ノよる檀君教の創立と金廉白の神教創
立とは全く別の脈絡に属するものであったと見なすべきであろう。村山の著作
には、政治的な意図に基づいた改竄が随所に見られるので、その使用に当たっ
ては慎重な態度が必要である。
村山智順の『朝鮮の類似宗教』については>>5-6を参照のこと。
(24) 本書 [注: 『巫黨来歴』] の冒頭に「時乙酉仲春婬谷破寂耳」と記され
ていることから、蘭谷と名乗る人物によって、一八八五年頃に書かれたものと
思われる。本書で特に注目すべき点は、檀君の太白山降臨の日時を十月三日と
具体的に明記している点である。管見では、これが檀君降臨を十月三日に指定
した最初の文献である。
(100) 当時のあらゆる教科書では、『三国遺事』の記述に従って、檀君の降臨
地を妙香山であるとし、その定都地を平壌の王倹城であると説明していた。
(愼繪ト『申采浩의 社会思想研究』한길사、一九八四年、一八九頁)。白頭山が
檀君の降臨した民族の聖山として重視されるようになったのは、申采浩の檀君
国粋史観が登場して以降のことであった。
- 30 名前:名無しさん 投稿日:2006/07/03(月) 22:31:24 ID:2fS6m.1c
- 久しぶりに資料漁り。ついでに史学雑誌の回顧と展望を読む。今年は特にひど
い。満洲史がずたずたに引き裂かれている。これに関しては、
古畑徹: 「戦後日本における渤海史の歴史枠組みに関する史学史的考察」
『東北大学東洋史論集』第9輯、215-245頁、2003年1月
という論文が、「回顧と展望」が過去に渤海史をどこで取り上げたか調べてい
る。満洲という項目は1966年を最後に消滅してしまい、それ以降「北アジア」、
そして現在の「内陸アジア」に取って代わられている。
その内陸アジア史を今年は村岡倫と杉山清彦の二人が、元を境に分担している。
が、担当の村岡は、夫餘とか渤海とか古代満洲を完全に無視している。杉山が
最後の枠組み論の所で満洲の扱いをちょっと議論しただけで済ませている。
遼金元は中国史に取り込まれている。清もそうだけど、清初の満洲の研究は別
枠があるからまあいい。『満族史研究』という専門の雑誌もあるし。『満族史
研究』は守備範囲を女真にまで広げることはあるけど、それ以前の満洲は完全
に無視している。
「回顧と展望」も、「隋・唐」がちょっとだけ渤海に触れるだけ。赤羽目匡由
は渤海史を朝鮮史に組み込む気まんまんのようだ。気に食わない。中国様に遠
慮しているんだろうけど、どうにかして満洲史の枠組みを再興できないかな。
関係ないけど、内陸アジアの杉山清彦が岡田英弘の『中国文明の歴史』と『だ
れが中国をつくったか』を挙げて、「表題の印象とは逆に該分野でも必読の概
説」としているのに笑った。こんなところにファンがいたのか。
『異文化との出会い』に収録された梅田博之「三田渡碑」を読んでみる。AA研
のエッセイ集みたいなもので、一コマ3ページ。碑文についてどうこうというの
ではなく、いろんな人と三田渡碑を訪れましたと回想しているだけ。出てくる
人名は私でも知っている有名なものが多い。
- 31 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 32 名前:名無しさん 投稿日:2006/08/02(水) 21:38:21 ID:s3IRoT1.
- >>28の佐々充昭だが、2006年5月の『アジア民衆史研究』第11集に「東アジア
近代におけるウエスタン・インパクトと国教創設運動の展開」という報告が収
録されたらしい。タイトルがいかがわしいのはいいとして、データベースを検
索しても全然引っかからない。国会図書館もそろえていないとはふざけている。
お膝元の早稲田の図書館にも置いてない。入手はかなり困難とみえる。
尻切れトンボのネタを放置して考古学。勾玉のウリナラ起源説について。不案
内な分野なので芋づる式に文献を集めた。2月からぼちぼち。でもまだ整理で
きていない。
全体的な印象から。勾玉そのものを扱った論文はそれほど多くない。ただし、
背景には玉全般とヒスイという二つの大きな分野があって、こっちを調べ始め
たら収拾が付きそうにない。後は遺跡の調査報告が山のようにあるみたいだが、
素人には到底解析できない。驚いたのは、いくら論文を漁っても、英文要旨は
勿論、英文の表題にさえお目にかかれないこと。東洋史だと有り得ないし、国
外の考古学でも『北東アジア古代文化の研究』などは英語の目次が付いている。
国内の考古学だけがこんな悲惨な状態なのだろうか。そんな中、『玉文化』と
いうできたばかりの雑誌が英文目次をつけていた。『玉文化』2では研究会の
報告として、用語の整理をしていて、若干の英語名称を検討しているので助か
る。それでも、例えば「丁字頭勾玉」を英語でどう表現すればいいのか分から
ない。
まずはウリナラの言説から検討する。参照したのは、
田村晃一: 「手工業製品の対外流通」『生産と流通』333-377頁、1991年5月
表題から明らかなように勾玉に焦点をあてた論文ではない。日本列島から半島
南部へ流れたものの説明もある。
- 33 名前:名無しさん 投稿日:2006/08/02(水) 21:38:38 ID:s3IRoT1.
- 半島南部から数多く出土する勾玉について、戦前は日本から伝わったという見
方が主流だったが、戦後の韓国側では韓国から日本に伝来したという主張が共
通的理解となっている。しかしこの主張にはいくつか問題点があると言う。
まず韓国側の説について。韓炳三の「曲玉の起源」からの田村の抜粋をそのま
ま写す。
「中国東北地方で遼寧式銅剣を使用する青銅器人達によって月神の象徴たる
半月形天河石玉を呪術的な護符として佩用することが始まった。このような
半月形玉が青銅器とともに韓半島にも伝来し、忠南地方に到った時は三日月
形の先史曲玉に変形され、南部地方にまで波及し、これがさらに海を渡って
日本に伝来した。このように変形発展した先史曲玉が南部地方の金海文化期
に入ってくると、より古墳出土曲玉と類似する形態をとるようになった」と
いい、さらに「以上のような曲玉の発展系譜を通じて明らかなことは、曲玉
が日本に起源し、韓半島南部に伝播したという日本学界の主張は事実と異な
り、百済・新羅古墳から多量に出土する曲玉は韓半島青銅器文化の所産であ
る先史曲玉に由来したというのが事実である」と述べた。
で、問題点。一番は産地が未発見なこと。一時期ヒスイの産地が韓国で発見さ
れたという情報が流れたが、寺村光晴が探査したところ見つからなかったとい
う。二番目は連続性。半玦状飾玉から原三国時代の勾玉には形式の違いと300
年以上の空白がある。具体的には、前者の横断面は砲弾形なのに対して、後者
は隅丸方形。また、頭部の形態も、前者は角ばっているが、後者は丸みを帯び
ているという。最後に丁字頭勾玉。日本では弥生時代中期から古墳時代まで継
続して見られるのに対して、新羅の領内で使用され始めたのは4世紀中葉以降、
5世紀中頃まで。また、半島での勾玉の佩用は金銀製耳飾の使用者層よりも限
定された一部の人々にのみ許された (あるいは可能であった) とし、勾玉が重
要視されたのは、日本から入手し得たた勾玉が権威の象徴となっていたからと
考えている。
- 34 名前:名無しさん 投稿日:2006/08/04(金) 21:31:06 ID:ZvPYrciY
- お次。
寺村光晴: 「日韓古代のヒスイと玉」『東アジアと日本海文化』、173-196
頁、1984年9月
上の田村晃一の論文が参照しているもの。これも勾玉を専門に扱っているので
はない。あくまでヒスイ製の玉が対象であり、ヒスイ製でない勾玉は除外され
ているし、勾玉以外のヒスイ製の玉にも触れている。
韓国で発見されたといわれたヒスイについて寺村は次のように述べる。(原文
の口語体を変更。要約。以下同様)
蛇紋岩帯があり、ヒスイ産出の条件を否定できない地質構造のところがあるが、
ヒスイと近縁関係のアルピタイトなどは検出できなかった。現時点では韓国に
はヒスイは産出しないと考えておいたほうがよい。しかし、地質構造からみて、
まったくないとも断言できない。
実は田村の論文ですべて引用されている。田村が省略している部分は次の通り。
韓国でヒスイ製の玉類が出土するのは三国時代になってからで、特に五世紀を
中心とし、新羅に多く出土する。百済や伽耶では比較すると少なく、高句麗で
はないといってもよい。
日本の古墳時代は、前期 (およそ四世紀頃) にはヒスイの玉が非常に多いが、
中期になると次第に少なくなる。韓国は反対に、中期になるとたくさん出土す
る。勾玉の使い方は、日本では、主として首飾りなどの親玉として使用され、
副葬品として古墳に埋葬されている場合が多い。韓国では、首飾りや耳飾りの
ほか、金冠の飾りとしても大量に使用される。日本の場合はマジカルなもの、
宝器的なものという意味合いが強いが、韓国ではむしろ装飾的でかつ儀礼的な
色彩が強い。
ヒスイ製勾玉の形による再分類から。日本では、丁字頭勾玉は古墳時代の前期
に盛行し、中期 (五世紀頃) になると少なくなる。定型化されていない勾玉は、
縄文時代や弥生時代初頭の頃に主として見られるが、古墳時代にはほとんどな
くなり、定型化する。一方半島では、五世紀頃に形式的な混在が認められる。
よって、新羅などの玉は、(自ら生産したのではなく) 集められたものがかな
りあると思われる。
- 35 名前:名無しさん 投稿日:2006/08/06(日) 08:14:55 ID:/hLm8OMU
- このスレッドメチャメチャ面白いですね。
勾玉ウリナラ起源説まであるとは初めて聞きました。
前方後円墳ウリナラ起源説というのは聞いたことありますが。
- 36 名前:鄭聲之 投稿日:2006/09/16(土) 02:04:57 ID:Cf29kZY2
- このスレ面白いね。ずいぶん長く止まってるけど。
- 37 名前:名無しさん 投稿日:2006/09/21(木) 21:37:17 ID:zYApyFFA
- >>35-36
ありがとうございます。何だかスレを完全に私物化しちゃってますが、もとよ
り意図してのことではありません。皆さんの投稿を歓迎します。特に鄭さん!
ここ10年で最悪のネット環境でしばらく耐え忍んできました。まあ、そういう
ことがあっても困らないようにハングル板ではなく総督府でやっているのです
が。それはともかく、代わりに、国会図書館の本館で、近所では手に入らない
論文を仕入れてきました。今日はそのうちの二つを紹介します。
>>32で触れた佐々充昭の「東アジア近代におけるウエスタン・インパクトと国
教創設運動の展開」があった。『アジア民衆史研究』は遅れて納本された模様。
内容は、
近代化の過程で、体制崩壊を回避するために伝統宗教を再構築してナショナ
ル・アイデンティティを確立し、国民統合を図るという国教創設運動が行わ
れた。この国教創設運動は、日本の国家神道→中国の孔教運動→朝鮮の儒教
改革運動→朝鮮固有宗教 (檀君教) の創設 という順で影響が及んだ。
といった感じ。多分ハン板の檀君崇拝スレの人の方が詳しいと思う。
ttp://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1157037022/
阿曽村邦昭: 「「古朝鮮」についての若干の考察」『麗沢学際ジャーナル』
10(2)、37-68頁、2002年
この人は、
阿曽村邦昭: 「蒙古の対外膨張に対する大陸周辺諸国の対応と檀君神話」
『麗沢大学論叢』13、85-120頁、2002年
という論文も書いているが、こちらは製本中で入手できず。『麗沢大学論叢』
は所蔵している図書館がやたら少ない。
副題に「韓国国定歴史教科書理解のために」とあるように、教科書を含めたい
ろんな文献の説を比較検討しながらうだうだ言っている。韓国人が出てくるた
びに経歴を載せるあたりが特徴的。要約としては便利だけど、特に目新しいこ
とを主張しているわけではない。
そもそもこの人は歴史学者ではない。この人が書いた論文の表題をいくつか挙
げると、「平和構築と開発」「転換期の中国と農村における政治意識」「桓武
天皇と帰化人系官人」など。節操がない。おまけに、韓国側の研究動向を調べ
ているようで、実は日本語化されているものしか読んでおらず、かなり手抜き。
これではやっていることが私と変わらない。
- 38 名前:日語商売 ◆G2IlbonwGk 投稿日:2006/09/22(金) 14:59:08 ID:ZdGHCn4k
- いつも読ませていただいております。
面白いですよ、私も勉強になります!
- 39 名前:名無しさん 投稿日:2006/10/03(火) 11:36:34 ID:qASL5hCM
- bhjbんl・;k:;
- 40 名前:名無しさん 投稿日:2007/01/08(月) 22:21:14 ID:uJmqrTBA
- >>38 どうも。
今回は王仁について。古代史のようで現代史。あるいは歴史の政治利用、また
そのための捏造。
王仁については、既に野平俊水の『日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史』の
中で、「王仁博士の生家は全羅南道・霊巌である」として取り上げられている。
次の論文も王仁の政治利用を扱っている。
大石和世: 「伝説を通して表象される日韓関係−−ポスト・コロニアル状況
下における王仁博士顕彰運動について」 『福岡発・アジア太平洋研究報告』
第13号、1-9頁、2004年
ポスコロなんて言っている表題から明らかなように真っ当な史学ではない。実
際、本文冒頭で
本稿の問題意識は、植民地主義の遺産である言説が、現在の政治的文脈にお
いて、いかに用いられているかを明らかにすることである。
と述べている。まあ、そんなことはどうでもいい。国内では入手困難な文献を
整理しているところがうれしい。大石氏は、水野氏のと違って、王仁と霊巌が
結び付けられる過程のいかがわしさは省略している。かわりに1970年代以降の
政治的動向について詳しい。
面白いのは次の話。水野氏は、韓国霊巌に関する情報を金秉仁「王仁の『地域
英雄化』過程に対する文献史的検討」によっているが、その金秉仁の新しい論
文「王仁と霊岩、そして「内鮮一体論」」(2003) が発表された大会は、同じ
霊巌郡にある道岬寺側の勢力の意向で開かれたもので、その政治的意図は、自
治体が推進する王仁顕彰運動に対抗して、寺ゆかりの道詵国師を持ち上げるこ
とだという。こういう内輪揉めっぽい話はいろいろ使い道がある。
どうでもいいけど霊巌と霊岩の表記の揺れが気になる。霊巌の方が正しいと思
うのだが。
- 41 名前:名無しさん 投稿日:2007/02/07(水) 06:03:48 ID:u9uxfCbg
- どうでもいいけど王仁と霊巌が結びついた最初のきっかけはなんですか?
元々関係ないんですよね?
- 42 名前:名無しさん 投稿日:2007/02/17(土) 21:02:26 ID:DrHO6piQ
- >>41
水野の本から金秉仁の論文を孫引きすると、1932年頃青木恵昇という坊さんが
言い出したのが、知られる限り最初らしい。根拠は言い伝えというから、単な
る捏造でしょうね。
今回のネタは蚩尤。中国の神話で、黄帝と涿鹿の野で戦って破れ殺されたとい
う。この蚩尤を韓国サッカーのサポータ「レッドデビル」がマスコットにして
いる。存分にシナーさんと喧嘩してくださいって言いたいところだが、情報が
少ない。日本だと、物好きねらー以外がこの話を取り上げているのを見たこと
がない。「孔子は韓国人」程のインパクトがないからか。
話の出所は例によって檀君系の偽書。『桓檀古記』の「三聖記」に倍達国第14
代慈烏支桓雄が蚩尤天王と称したとある。あとは中国の史書の換骨奪胎っぽい。
漏れは神話には詳しくないので、『中国神話・伝説大事典』の助けを借りる。
「頭が銅、額が鉄」という記述は、北宋代の『太平御覧』巻78に引く漢代の
『龍魚河図』にある。他も原典があるのだろうが良く分からない。違うところ
は黄帝軒轅に破れて殺されるはずが、勝って黄帝を従えたことになっている。
「青丘国に遷った」というのは、『帰蔵』「啓筮」に「青丘で黄帝に殺された」
とあるのをもじったのだろうか。
某オンライン百科事典では、蚩尤があたかも韓国の神話に登場して信仰を集め
てきたかのように記述されている。これが大嘘なのは言うまでもない。そもそ
も、蚩尤は朝鮮の史書にめったに出てこない気がするのだが。
確かに軍神っぽい扱いをしている記述が見えるが、中国でどの程度一般的なの
かわからない。『中国神話・伝説大事典』は、劉邦が挙兵の際に黄帝を祀り、
蚩尤を祭ったという『史記』の記述を引いている。自分で見つけられたのは、
宋太宗が戦いの前に蚩尤を祭ったという宋史の記事ぐらい。蚩尤という単語が
出てくるのは、ほとんどが妖星である蚩尤旗が見えたという記録のように思う。
- 43 名前:名無しさん 投稿日:2007/02/28(水) 08:13:54 ID:Df7qkE0I
- 蚩尤は史記にもでてくるメジャーな神様じゃないですか。
三皇五帝の神話で、神農から黄帝への交代するところで。
神話によって、黄帝が「まず神農、次ぎに蚩尤を」破ったとするバージョンと
黄帝が「まず蚩尤、次ぎに神農を」破ったとするバージョンがあるようです。
- 44 名前:名無しさん 投稿日:2007/02/28(水) 20:42:16 ID:Rp3cnl6k
- >>44
すみません。文章が下手で誤解を招いているような気がします。42で蚩尤が一
般的でないということを二回書いていますが、一度目は、日本での知名度が今
ひとつだから、SAPIOとかその手の雑誌には載らないだろうという意味です。
二度目のは、神話として知られているかは別として、蚩尤に対する祭祀がどの
程度行われていたのか分からないという意味です。
祭祀には全然詳しくないが、別件で調べていた
桑野栄治、「李朝初期の祀典を通じてみた檀君祭祀」、『朝鮮学報』第14輯、
57-101頁、1959年
によると、李朝の成宗朝に『国朝五礼儀』という書物が上梓され、祀典が完成
した。その『国朝五礼儀』の補助書として編纂された『国朝五礼序例』によれ
ば、李朝初期の祭祀には、大祀、中祀、小祀の三段階があり、例えば社稷や宗
廟は大祀に区分される。これ自体は唐の制度そのままだと思う。小祀の中に禡
祭があり、禡祭壇は王都の東北郊にあったとあるが、この禡祭こそが蚩尤のこ
と。禡という見慣れない文字は、文字通り軍神を祭ることらしい。なお、「大
祀、中祀が、おおむね国王親祭が原則とされているのに対して、例外なく各級
の官員が主宰するように定められている」とある。
いちおう支那の劣化コピーで蚩尤の祭祀は行っているけど、数ある神の一人に
過ぎないわけで、広く朝鮮人の信仰を集めていたということはないはず。
そういえば、青丘は朝鮮の別称として使われる。どういう由来かは知らないけ
ど。これもこじつけに使われたのだろうか。
- 45 名前:名無しさん 投稿日:2007/03/09(金) 22:06:03 ID:q2bTVz6U
- 水野俊平『韓vs日「偽史ワールド」』を入手。前作『韓国人の日本偽史』もそ
うだが、水野氏には、日本であまり知られていない韓国の言説を紹介すること
を期待している。トンデモにしろ、比較的まともな論考にしろ、韓国で出版さ
れたものは、日本では大抵入手困難だから。
今回取り上げるのは、その第3章第1節。朝鮮の役で妓生の論介が道連れにして
殺したのは毛谷村六助という説は、実は根拠のない20世紀のでっち上げという
話。興味がなかったので今まで全然知らなかった。
水野は、論介の説話が潤色される過程を金スオプ『論介』を使って説明してい
る。論介の方が中心だが、私が気になったのは、むしろ、毛谷村六助の方。浄
瑠璃の演目で、歌舞伎にも採用された『彦山権現誓助剣』の主人公というから、
知られている話のうち、何が史実で何が虚構なのか、まずはっきりさせたい。
そもそも毛谷村 (けやむら) という名前からして妙だ。出身地豊前国の村の名
前だが、谷を「や」と読むのはあずまっぽくて西国らしくない。本当にそんな
地名があるのかと思ったら実在した。大分県中津市山国町 (2005年の合併以前
は下毛郡山国町) に槻木 (つきのき) という村があり、その中に毛谷村という
地名がある。なお、菱屋平七『筑紫紀行』(1801) が、当地に滞在した時に毛
谷村六助のことを尋ねている。以下、日本歴史地名大系の大分県から孫引き。
豊前国毛谷村六助が事、太閤御誠録と云軍書に出て、近頃浄瑠璃にさへ作りた
る事をふと思ひ出て尋れば、其事に候、是より一里北にあたりて、元槻木村と
申すに七右衛門と申者代々村の長にて、是六助が子孫なりとかや申候。此七右
衛門が家、春の初に松飾を用ひずして、柴の把を門にたて候、家に系図記録も
候らひしを、二十年以前火災にて、村中ことこと[反復記号]く焼亡せし時にほ
ろび失たりと申候。かの毛谷村は、此槻木村をけやき村とよみたる誤にや候は
ん。又同しあたりに杉山と申所の候。かの杉坂も此事にやと申候。すべて慥
[たしか]成事は伝へも承はらず候とかたる
ということで、毛谷村は槻木村の誤読という説が紹介されている。また、この
当時は地元では毛谷村が地名として定着していなかった風だから、もしかした
ら現在の地名は、浄瑠璃・歌舞伎からの逆輸入かもしれない。
- 46 名前:albert.applegate@emailaddresses.com 投稿日:2007/03/15(木) 10:59:16 ID:VbPZHTtw
- Google is the best search engine
- 47 名前:名無しさん 投稿日:2007/03/30(金) 21:37:44 ID:IMFaNT96
- 本場支那の祭祀については金子修一が研究しているようだが、対象を唐代まで
としている模様。宋代ぐらいまで手を伸ばしてくれてもいいと思うのだけど。
>>44で触れた桑野の別の論文にも情報があった。
桑野栄治: 「李朝初期における国家祭祀」、『史淵』、第130輯、1993年
『国朝五礼儀』を中心に李朝初期の国家祭祀の整備過程を調べている。『国朝
五礼儀』の小祀にある、老人星、禡祭、酺祭、纛祭、詩ユは、『世宗実録』五
礼にも、『高麗史』礼志にも見えない。ゆえに、李朝初期における国家祭祀の
特性を示すものとして、桑野は各々に特別に検討をくわえている。このうち、
禡祭が蚩尤の祭祀。
禡祭の祭神は、実は、世宗4年当時は黄帝だったそうだ。その後制度について
議論が起きて、礼曹が古制を研究した結果、世宗6年に祭神を蚩尤にかえるこ
とになった。『通典』所載の周制にならったとある。
実際に『通典』を見ると、卷76、軍禮に「禡於所征之地.」とある。あとは註
釈で、礼曹が引いているのは「若至所征之地祭者,則以黄帝、蚩尤之神,故亦
皆得云禡神也.若田狩,但祭蚩尤而已.」という部分。台湾中央研究院漢籍電
子文獻を使っているので、いつ誰がつけた註釈かわからない。
「これにより、世宗6年9月に禡祭儀註が制定され、毎年春秋の講武の前日に禡
祭が挙行される運びとなった。」という。ところが、英祖20年 (1744) 年に制
定された『国朝統五礼儀』(『国朝五礼儀』の改訂版)では禡神は革罷されてし
まったという。何だか扱いが軽い。
- 48 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 49 名前:名無しさん 投稿日:2007/04/05(木) 21:26:44 ID:qgkRBIvo
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- 50 名前:名無しさん 投稿日:2007/04/05(木) 22:27:33 ID:qgkRBIvo
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- 51 名前:デッドテック ★ 投稿日:2007/04/06(金) 02:46:01 ID:???
- 【悪質】荒し処理報告【連投】
http://www.soutokufu.com/cgi-bin/hogehoge/test/read.cgi/management/1175782617/
上記スレの標本として、>>49と>>50のレスは保存いたします。。。。。。。。
- 52 名前:名無しさん 投稿日:2007/04/06(金) 15:04:58 ID:P/gdgEJc
- 何これ?
- 53 名前:娜々志娑无 ◆1ONcNEDmUA 投稿日:2007/04/13(金) 00:11:31 ID:MrlNL/Fs
- このスレは良スレニダから、何とか守ってほすぃニダが…。
- 54 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
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- 55 名前:名無しさん 投稿日:2007/05/20(日) 11:43:16 ID:Qs5X53rQ
- test
- 56 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
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- 57 名前:名無しさん 投稿日:2007/09/03(月) 20:20:06 ID:4DywIhFE
- 5ヶ月放置しても落ちない総督府は素晴らしい。スパマ対策には感謝です。
>>45で見た毛谷村六助の話。
金京欄: 「韓国の「論介」説話と浄瑠璃『大功艶書合』及び改作について」、
『演劇研究センター紀要』V、39-45頁、2005年1月
という論文を読んだ。後で調べると、以前の論文を合わせて、『日・韓語り物
文芸における女性像と担い手たち』というD論の一部として公開されている。
ttp://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/5281
正直言って、何を根拠に何を主張しているのか、論理展開がわからない。「演
劇学」なるものがどういう方法論を持っているのか知らないが、日本と韓国の
文学を比較してウダウダ言っているだけなら問題ないし、漏れも評価しようが
ないから、華麗にスルーする。ところが、金は歴史について2つ重大な主張をし
ている:
* 毛谷村六助が論介に殺されたのは史実
* 浄瑠璃/歌舞伎の作者はその話を知っていて劇に組み込んだ
そうなると、何を根拠にしているのか気になるが、肝心の部分がぼやけている。
金の論理を追っていくと、毛谷村六助が論介に殺されたという前提から出発し
て、両国の文学を比較、似ている部分があれば韓国の説話の影響だと主張し、
毛谷村六助が論介に殺されたのは史実だと結論付けている。トートロジー。2
点目についても、『大功艶書合』の作者が「大陸事情に非常に詳しい人物」だ
からで片付けている。いくら「演劇学」が史学じゃないといっても、これはひ
どいのではないか。
史学がらみの主張をしているけど、金がやっているのは「文学を比較してウダ
ウダ言う」ことだけ。それ以外の作業は、事典や他人の著作を引くだけ。でも、
本当はやるべきことはいろいろある。
絶対欠かせない基礎作業は、現在伝わる毛谷村六助 (貴田孫兵衛) の話から、
史実と後世の脚色を分離すること。そのために、浄瑠璃や歌舞伎の台本や講談
本の系統関係を明らかしなければならない。特に、『豊臣鎮西軍記』が、撰者
不明として書誌学的な検討なしに放置されているのは問題。
もう一つは、槻木村に残るという毛谷村六助の史料をちゃんと分析すること。
これらは、江戸時代半ばに毛谷村六助が脚光を浴びてからでっち上げられた可
能性があると思う。水野が引いている
中村彰彦: 「歴史グルメほど、ひっかかる「偽書」誕生の心理学」、『諸君』
34 (6) 臨時増刊号、78-88頁、2002年5月
は、「大分県山国町に墓があることから見て無事生還した可能性が高い。」と
言っている。でも、崔官によれば、その「木田孫兵衛墓」からは「明治十四年
甲辰四日」と読み取れると言う。これを怪しまない神経が理解できない。
『毛谷村六助畧縁起』は、「享保元 (1716年) 丙申七月写之」と記されている
という。一応、日付の上では天明6 (1786) 年の『彦山権現誓助剣』の初演より
も古いことになるが、怪しさ満点。ちなみに、崔官が写真と写しを載せている
が、写真と比べると写しは明らかに一部だ。全文検討すればボロが出るかもし
れない。
- 58 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 59 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 60 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 61 名前:名無しさん 投稿日:2007/09/08(土) 21:23:11 ID:0qG0ZrOE
- >>40で触れた王仁ネタ。枚方の「伝王仁墓」の話。「伝王仁墓」も胡散臭いも
ので、1731年に京都の儒者並河誠所が、「オニ墓」と呼ばれていた自然石を王
仁の墓だと言い出したのが始まりという。今回読んだのはこれ:
後藤耕二: 「あとがきにかえて−−伝王仁墓を介した大韓民国全羅南道霊岩
郡との友好都市問題をめぐって」『在日朝鮮人の歴史』、317-328頁、1994年
枚方市教育委員会から出版。著者は社会教育課所属。行政に関わる人間という
こともあってか、問題意識がやたらに現代的。その論理は非常に単純:
* 日帝は悪
* 王仁を顕彰したのは日帝
* ゆえに王仁を顕彰するのは悪
ところが、朝鮮人が王仁を顕彰していることには批判を加えたくない。おかげ
で、批判が鈍り、結論も「よく調べて考えましょう」という、ありきたりで内
容のないものとなっている。もっとも、左巻きの主張は入れたかったようで、
アジアの隣国大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国との新しい関係を築いてい
くためには歴史認識を改め、強制労働・連行、従軍慰安婦問題などを明らか
にし、植民地支配の責任清算を積極的に進めていかなければならない時期に
きているといえます。
などの演説が不自然な形で挿入されている。これが書かれたのは1993年で、出
版されたのが村山内閣の頃。その後枚方市は正常化したのだろうか?
ちょっと脱線するけど、朝鮮人、特に在日と、古代の帰化人を同一視する言説
がどういう経緯で生まれたのか気になる。当たり前のように思われているけど、
よく考えたらそうでもない。日本人と朝鮮人を区別するとき、帰化人を現代日
本人の祖先の一部として日本人側に入れてもおかしくない。複数になると自他
の境界なんていくらでも恣意的に設定できる。
政治的な主張に目をつぶれば、便利な資料ではある。伝王仁墓をめぐる明治以
降の動きを詳細に追っているのは、知る限りこれぐらい。関連する新聞記事を
集めているのもうれしい。だた、個々の記事の出所をもうちょっと明確に記載
してほしい。ついでに言えば、上野公園の博士王仁碑の設立経緯についてもこ
れぐらいの情報がほしい。
新聞記事で言えば、明治期の「博士王仁墓地」拡張運動がらみで、「仁徳天皇
の師伝となった」という記述がある。日本書紀によれば、王仁は菟道稚郎子の
師となったはずなのに。これは一時的な勘違いだったようで、その後の記事に
は見えない。
ちなみに『枚方市史』の第2巻と別巻も少しだけ王仁を取り上げている。別巻
(1995) は、後藤と同じ筆致で、伝王仁墓に根拠がないことを述べている。第2
巻 (1972) は、元の「オニ墓」という伝承を含めて由来を説明しているが、別
巻のように根拠薄弱さを特段強調していない。
- 62 名前:鄭聲之 投稿日:2007/09/09(日) 01:19:33 ID:j271kPXY
- >上野公園の博士王仁碑の設立経緯
上野公園にそんなのあったっけ?
おれすぐ近くの日暮里に住んでてよくいくけど知らないよ?
- 63 名前:名無しさん 投稿日:2007/09/10(月) 09:44:26 ID:7TwaYy.A
- >62
> >上野公園の博士王仁碑の設立経緯
>
> 上野公園にそんなのあったっけ?
> おれすぐ近くの日暮里に住んでてよくいくけど知らないよ?
これだね
ttp://www.blu.m-net.ne.jp/~tashima/c2006.html
上野公園にある「王仁(わに)博士碑」を訪ねて
- 64 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 65 名前:名無しさん 投稿日:2007/09/10(月) 22:14:25 ID:S2Pq3Q9Y
- 私も上野公園には一度行ったことがあるけど、王仁の碑は確認していません。
金秉仁: 「王仁의 「지역 영웅화」 과정에 대한 문헌사적 검토」
『韓國史硏究』115、177-205頁、2001年
「王仁の「地域英雄化」過程に対する文献史的検討」は、水野と大石が引いて
いる論文。タイトルから漢字ハングル交じりかと思っていたのに、入手してみ
たらほとんどハングルで泣いた。hwp のファイルがネット上に落ちていたので、
そっちを見ながらなんとか読む。
水野は、「「王仁」の記録が韓国で初めて現れるのは韓致淵 (1765〜1814年)
の『海東繹史』である」とし、その記述は「寺島良安の『和漢三才図会』とい
う史書の記述をそのまま書き写したにすぎない」とする。また、「王仁が霊巌
で生まれたという記述が現れる史料は李秉延『朝鮮寰輿勝覧』(1922〜37年) で
ある (同時期に刊行された『霊巌郡誌』などの史料には「王仁」について一切
言及がない)」と、特に文献を引かずに述べている。水野はこのすぐ後に金秉仁
の論文を紹介しているが、実は前の記述も金論文に依ることが確認できた。
『海東繹史』の記述が『和漢三才図会』の引き写しなのはいいとして、それが
初出という主張は、どの程度本格的に文献を調査した結論なのか分からない。
だいたい、水野は続編の『韓vs日 「偽史ワールド」』の38頁で、
1655年に従事官として日本に赴いた南龍翼 (1628〜92) の『扶桑録』には
「応神天皇の代に百済による王仁の派遣があった」(中略) などと書かれてい
る。言うまでもなく、これは『日本書紀』の記述に沿ったものである。
と書いている。これも誰かの受け売りだろうが、参考文献を明記していないの
で分からない。これが本当なら、金秉仁の主張は誤りである。議論の大勢には
影響ないけど。水野は続編を書いていて矛盾に気づかなかったのだろうか。
とりあえず南龍翼 (壺谷) の『扶桑録』を確認してみた。『大系朝鮮通信使』
第3巻に東洋文庫蔵本の影印が収録されている。これは『海行ハ載』に収めら
れたもので、活字。ざっと斜め読みしてみたが王仁に関する記述は見当たらな
かった。見落としている可能性も低くはないが、少なくとも詳細な記述はない
だろう。ただし、同じ南龍翼による『聞見別録』にはあった。「倭皇代序」と
いう項目の、「応神皇」の部分に「乙巳百濟遣王子王仁」とある。王仁を王子
と勘違いしてるっぽい。こんな感じの記述は『海東諸国紀』にもあったような
気がしたので調べてみら、応神天皇の部分に、「十五年甲辰百濟送書籍十六年
乙巳百濟王太子来」とあった。王仁に関するのは15年の条だが、王仁の名前は
出てこないが、申叔舟が参考にした書籍の中に王仁の名前が出てきた可能性は
高そう。南龍翼は、確実に王仁の名前が出てくる資料を参考にしたが、適当に
編集したために15年と16年の条を混同したのだろう。
金論文にあまり触れていない気がするが、今日はここまで。
- 66 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 67 名前:名無しさん 投稿日:2007/09/19(水) 15:47:35 ID:oFSJfKnA
- >>62-65
行ってきました、上野公園。
確かにありました。目立たないけどすぐ見つかった。
漢文なのでよくわからないけど
皇紀二千五百九十九年に、なんとか伯爵が中心になって建立したらしい。
日本人に混じって「朝鮮代表」趙なんとか(趙洛崖?)ってのもでっかく署名してる。
その隣の「副碑」は翌年の二千六百年に林銑十郎が立てた(?のか?)
なんで二つあるのかもわからないけどそれ以上に
なんで「上野」なのかはもっとわからない。
全文ちゃんと解読すれば説明あるのかも知らんけど。
- 68 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 69 名前:名無しさん 投稿日:2007/12/23(日) 23:56:38 ID:j3zWdwdE
- 久しぶりに投稿。>>24の咬住 (李天桂) の解釈に補足。ネタ元はこれ:
Hoong Teik Toh (卓鴻澤): Materials for a Genealogy of the Niohuru
Clan: With Introductory Remarks on Manchu Onomastics (Wiesbaden:
Harrassowitz Verlag, 2005).
表題の通り『八旗満洲鈕祜祿氏通譜』の紹介と、満洲語の人名に関するちょっ
とした論考。後者は長い註釈のおかげで有り得ないぐらい読みにくい。
満洲語の文献に出てくる満洲人の人名には、支那語っぽいけど何だかよく分か
らないものがある。これに対する Hoong の主張は次の通り。支那語っぽい名
前は、先に漢字があって、それを満洲文字で転写したと思われがちだけど、そ
うとは限らないから注意が必要。それを解明するには、満洲人だけでなく、契
丹、女真、ウイグル、モンゴルの名前も参考になる。ちょっと乱暴な感じがす
るけど、この見方は新鮮。
例えば、宗室の Hooge の -ge は、歴史のあるサフィックスで、金末の契丹人
で高麗とも関係のある耶律留哥の哥と同じだと言う。元々は、トルコ・モンゴ
ル系のサフィックスで愛称を作る -ka が起源だとする。唐の玄宗が息子の李
琰に三哥と呼ばれたという記録もあるそうだ。
問題の咬住だが、-ju も古くからあるサフィックスらしく、契丹人の名前にも
見える。-ju の意味については特に述べていない。-ge 付きの名前には、対応
する -ju 付きの名前が確認できる他、満洲人の名前については、-tai, -tu
とも交代例が見られるという。「咬」字がどういう意味か、そもそも意味があ
るのか分からないままだが、女真の命名習慣に基づく名前という点は問題ない
だろう。
- 70 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 71 名前:名無しさん 投稿日:2008/02/17(日) 16:29:43 ID:RMeBQEPU
- クマーのスレが「大きすぎて見えない」になってますが
これどういうことんまんですかね?
- 72 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 73 名前:デッドテック ★ 投稿日:2008/02/18(月) 21:09:01 ID:???
- >>71
容量が大きいのと、業者広告多可でログが詰まっているのだと思います。。。。。。
近い内に過去ログ倉庫にHTML化して移動させて見ます。。。。。。。
- 74 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 75 名前:名無しさん 投稿日:2008/02/19(火) 09:09:26 ID:z/RwDx5I
- >>73
500KB超えているのも原因の一つではないでしょうか。
- 76 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 77 名前:デッドテック ★ 投稿日:2008/02/19(火) 20:48:32 ID:???
- >>75
かもしれません。。。。。
- 78 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 79 名前:印藤和寛 投稿日:2008/03/16(日) 14:33:37 ID:1QyxAYTY
- 最近知って参考にさせていただいています。色々教えられることが多くありがとうございます。
ちょっと気付いたので書き込みます。
>16 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/05(土) 23:08:06 ID:KFx6UIVE
>三田渡をなぜか sambat gei と写している。訳編は242頁の注釈で
> 薩木巴徳盖: 満文音訳、史裁三田渡
>としている。碑文は san tiyen du とあるし、内国史院档の写しも san tiyen
>du だ。(ただし点が見えないので tiyan ととれる。)どうしてこんな妙な音訳
>になったのか謎だ。
batは固有朝鮮語で「はたけ、field」、gaeは同様に「河川の海水潮汐限界点」の意味ですから
元来sambat-gaeと呼ばれていた所を漢字地名に直して三田渡としたのでしょう。
鉄道敷設時に、京釜線の途中、支線との分岐点がhanbat(広いはたけ)と呼ばれていたのを、
漢字では大田としたのは有名ですね。
- 80 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 81 名前:名無しさん 投稿日:2008/03/30(日) 21:41:46 ID:CDEcoTng
- test
- 82 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 83 名前:名無しさん 投稿日:2008/04/07(月) 23:59:44 ID:HZBb5WSs
- >>79
ありがとうございます。迂闊でした。固有語の可能性は当然考えるべきでした。
「朝鮮史やるのに朝鮮語は必要ない」と普段豪語していても、こういう時困り
ますね。
ちなみに、gei 「盖」の部分を読み間違っていないかと、もう一度内国史院档
を調べてみましたが、gei だと思います。手書きで判別しにくく、男性の g
か女性の g か微妙ですが、g-a なら g-e とちがって少し離して書くはずなの
で。
あとは雑多なネタ。
>>69の Hoong は Toh の間違い。台湾の人。漢字表記は後で調べて出てきたも
ので、本には載っていない。最初名前の構造がわからず Hoong と呼んでいたら
そのまま間違えた。
-ju についてもう一つ言えば、「李満住」をどう解釈するか問題。manju が清
初以前から使われていた例として引かれることがあるけど。Toh の説が正しい
なら、「李満住」と manju は偶然の一致の可能性がある。
東京外大が論文なんかをオンラインで公開していて便利。
ttp://repository.tufs.ac.jp/
- 84 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 85 名前:名無しさん 投稿日:2008/05/04(日) 12:02:41 ID:Q1M3YHyQ
- >>69に関する>>83の訂正にさらに訂正。卓鴻澤は、「マレーシアの華人出身、
ハーヴァード大学において James Bosson 教授の指導のもと "Tibetan
Buddhism in Ming China" により学位を取得。2005年10月から中央研究員助研
究員となっている。」とのこと。『満族史研究』5の中見立夫の文献紹介より。
図書館で現実逃避したいのに、まとまった時間が全然とれない。今回はオンラ
インで済む話。元ネタは朝鮮日報の記事。
朝鮮王朝の太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?
ttp://www.chosunonline.com/article/20060905000052
李朝初期のモンゴルからの影響は、岡田英弘が概説書でさらっと触れていて、
宮紀子が書誌学っぽいところから攻めた論考があるぐらいで、日本ではまとも
な専論がないと思う。ついでに、李朝の先祖については、>>24で触れた池内宏
の古い論文があるくらい。
尹銀叔の論文をオンラインで探してみた。韓国の某サービス。検索できるし、
新し目のものはPDFも手に入ったりする。余談だが、この方面、日本は遅れす
ぎ。技術的には何の問題もないから、権利者を納得させて進めるだけだが、政
治的なところがうまくいかないのが日本。論文なんて、もともと採算の取れる
ものではないし、人に読んでもらってナンボのものなので、公開してほしい。
見つかった尹の論文を年代順に並べてみた。
* 1998: 「西渤海」とモンゴル
* 2003: クビライ・カンの中央集権化に対する東道諸王たちの対応 -"ナヤン反
乱"を中心に-
* 2004: チンギスカン東道諸王の分封地とその発展 -モンゴル汗国の創業,守成
過程の対応と係わって-
* 2006: オッチギンとチンギスカンの金国征伐戦
* 2007: オッチギン家タガチャルの活動とクビライのカアン位争奪戦
* 2007: モンゴル帝国初期帝位継承紛争 -オッチギンの軍事行動を中心に-
* 2007: ナガチュの活動と14世紀末東アジア政勢
モンゴルの東方三王家、特にオッチギン家が専門の様子。朝鮮日報の記事を読
むと、モンゴルと高麗、李氏との関係ばかりを扱っているような印象を受ける
が、そうではないらしい。元代の満洲史は、そもそも『元史』が杜撰だったり
するなど史料の制約が大きい上、研究が少なく、未だに和田清あたりを引いた
りしている。このあたりを真面目に補完してくれるのならうれしい。
韓国語はほとんど読めないので英文要旨に頼るわけだが、この英文がかなりひ
どい。ちなみに、もう一方のエルデニ・バータルはまったく検索でヒットしな
い。D 論だけ書いているとは思えないのだが。
- 86 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 87 名前:日語商売 ◆G2IlbonwGk 投稿日:2008/05/30(金) 18:37:59 ID:h6uldtmk
- >>57
超亀レスながら
>崔官によれば、その「木田孫兵衛墓」からは「明治十四年
>甲辰四日」と読み取れると言う。
干支の書き方に引っかかったので、調べてみましたら、以下の疑問が。
・明治14年の干支は癸巳。甲辰ではありえない(明治ならば37年)。
・木田孫兵衛の生存以降の甲辰年は、古い順に慶長9年、寛文4年、享保9年、天明4年、天保15年(弘化元年)、明治37年、昭和39年。
「明治十四年」と間違えそうな年号は1つもない。「明治三十七年」を除けば「天明四年」がやや似ているか?
・甲辰を月の干支と捉えることもできるが、甲辰月は明治14年には存在しない(一番近いのが翌明治15年の3月)。
それに、月を数字を示さず干支で表記するのは極めて異様。もしや「四日」は「四月」の間違い?
・明治5→6年の太陽暦採用以降は、年に干支を付すことすら少なくなる。
つまり、「明治十四年甲辰四日」という読み取り自体に非常に重大な間違いがあるとしか考えられません。
崔官の本では「残りの碑文は薄れて判読不可」とあり、そうなると年月日の読みも怪しいでしょう。
地元の郷土史家とかでちゃんと読んでいる人はいないのでしょうか?
- 88 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 89 名前:名無しさん 投稿日:2008/06/14(土) 17:59:48 ID:QebGGvjI
- >>87
ありがとうございます。返事が遅れてすみません。
整理のために、崔官著『文禄・慶長の役−−文学に刻まれた戦争』(1994年) の
p.220より該当部分を引用します。
現在、大分県下毛郡山国町毛谷村 (槻木村) には、毛谷村六助 (後に貴田
[木田、喜田] 孫兵衛と改名) の墓 (「木田孫兵衛墓」明治十四年甲辰四日、
残りの碑文は薄れて判読不可) がある。
その続きが以下。
そこの喜登家 (現在の家は約二百年前に建てられたという) には「享保元
(一七一六年) 丙申七月写之」と記されている古文書「毛谷村六助畧縁起」が
伝わり、毛谷村六助の実際の行跡について物語ってくれる。
これに関しては、
田畑博子、「『彦山権現誓助剣』論」、『国文学 解釈と鑑賞』、第61巻5号、
164-174頁、1996年
に以下の記述があり、別ソースから裏付けています。
山国町の六助のお墓をまつっている月木博氏の家には、「毛谷村六助畧縁起
写」が残っている。この巻物は、「享保元丙申七月写之」「右明治三十五年
五月再写」とあり、墓の隣りの喜登家の物を写したものである。
田畑氏も墓の写真を掲載していますが、残念ながら碑文については触れていま
せん。一応、私も「明治十四年甲辰四日」が何かの読み間違いという可能性を
してみました。「四日」が「四月」の間違いというのはありそうです。四月が
甲辰にならない気がしましたが、新暦なら問題ないようです。対応する年が明
治の 5 * N 年とすると、明治35年3月なら、『縁起』の写しと連動していい感
じです。問題は、読み損じて「十四年」にはなりそうにないことです (丗五?)。
やはり現物を確認しないことには何ともいえませんね。
- 90 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 91 名前:名無しさん 投稿日:2008/06/22(日) 16:54:34 ID:xzJyKsSA
- 昔集めた資料から。
園田俊介: 「北魏時代の楽浪郡と楽浪王氏」、『中央大学アジア史研究』第
31号、1-32頁、2007年
ググったところ、著者は津島市立図書館副館長らしい。
楽浪郡で王氏と言えば、文献にも出土物にもよく出てくる有力な一族だが、こ
こでは、高句麗に滅ぼされた後の僑郡を扱っている。まず、史料の記述が断片
的な楽浪僑郡の変遷を王氏のいくつかの墓誌を使って補完し、次に北魏時代の
王氏の婚姻関係を整理している。しかし、私にとっては、議論の出発点からし
て初耳だったりする。
* 楽浪郡は313年頃に半島で消滅したあとも、朝陽からはじまって、北京、遼
寧省義県付近、河北省満城県付近の順で移転し、最終的に廃止されたのは北
斉時代の556年。
* 北魏の文明馮后の母や宇文泰の母が楽浪王氏であり、半島の楽浪が滅亡した
後も (というか滅亡後こそ) 有力な一族だった。
北魏の王温墓誌 (532) で主張される楽浪王氏の出自は、周文王、太子晋を族
祖とし、太原王氏の王覇、王沈を中間の祖先となっている。楽浪への移住は、
313年 (正しくは314年) に石勒の禍にあって逃げたとあり、年代的にはかなり
下っている。というか、ちょうど楽浪郡が高句麗に滅ぼされた頃。園田氏は附
会の可能性を指摘している。
楽浪王氏といえば思い浮かぶのは、『後漢書』循吏列伝の王景にある記述。先
祖の王仲が前漢文帝の時代に琅邪郡不其県から楽浪に移ったというもの。王温
墓誌はこれとは異なる。園田氏もこれには触れていない。楽浪王氏に複数の系
統があるのか、単に後世に先祖を偽ったのかわからない。
註にもあるように、もうひとつ思い浮かぶのは『新撰姓氏録』の記述。右京諸
蕃上の山田宿禰が周霊王の太子晋を祖とし、これとは別に、河内国諸蕃の山田
宿禰が魏の司空王昶を祖とある。王昶は晋の子孫を称するので、この二つは実
は同じ伝承と言える。王温墓誌の記述と接点があるようで興味深い。
- 92 名前:鄭聲之 投稿日:2008/06/22(日) 22:49:49 ID:NWIWUO5Q
- >>91
お、これは興味深いですねー。さっそく保存しますた
楽浪王氏ってのは山東王氏(つまり戦国斉の田氏の分家)から分出したんでしょうが
なぜ太子晋に付会する必要があったのか、ちょっと謎ですね
- 93 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 94 名前:名無しさん 投稿日:2008/07/21(月) 08:32:13 ID:VTvIpJYs
- そろそろこのスレも放棄した方が良い様に思うんですが、どうでしょうか?
王公族の英語での呼び方について前から気になっていて、英語の資料を探して
いた。まず外務省に目をつけたが収穫なし。最近、朝鮮総督府
(Government-General of Chôsen) が総監府時代から出している英語の年次報告
が使えることに気付いた。
Annual Report on Reforms and Progress in Chosen (Korea)
1910-11年版の Appendix A に 王公族の根拠となった併合条約が載っている。
Article III. His Majesty the Emperor of Japan will accord to Their
Majesties the Emperor and ex-Emperor and His Imperial Highness the
Crown Prince of Korea and Their Consorts and Heirs such titles,
dignity and honour as are appropriate to Their respective ranks, and
sufficient annual grants will be made for the maintenance of such
titles, dignity and honour.
Article IV. His Majesty the Emperor of Japan will also accord
appropriate honour and treatment to the members of the Imperial House
of Korea and their heirs, other than those mentioned in the preceding
Article, and the funds necessary for the maintenance of such honour
and treatment will be granted.
さらに、八月二十九日付けの寺内正毅総監の諭告が Appendix E:
Proclamation of Annexation by Resident-General (Issued on August 29,
1910.) として載っている。関連する部分は以下の通り。
Hereafter the Emperor of Korea shall be known by the title of His
Imperial Highness Yi Wang (Prince Yi), and the Crown Prince shall be
called Prince Heir, so that the hereditary title shall endure forever,
while the Ex-Emperor shall be given the title of His Imperial Highness
shall receive the treatment of Princes of the Blood and Their annual
grants shall be as munificient and the same in amount as heretofore.
munificient は munificence の誤りと思われる。アジア歴史資料センターで拾っ
た原文は以下の通り。
自今前韓国ノ皇帝陛下ハ昌徳宮李王殿下ト称セラレ皇太子ハ王世子トナリテ後
嗣長ヘニ相継承シ萬世無窮タルヘク太皇帝陛下ハ徳寿宮李太王殿下ト称セラレ
竝ニ皇族ノ礼遇ヲ賜ハリ其ノ秩俸ノ豊厚ナル皇位ニ在スノ時ト異ルナカルヘシ
見比べてみると、「昌徳宮」に対応する文言が英文にないなど、あまり忠実な
訳ではない。条約じゃないからいい加減なのかもしれない。注目すべきは、併
合後の敬称が His Imperial Highness となっていること。漢語だと皇帝から王
へ明白な格下げだけど、英文では、Majesty から Highness へと、君主じゃな
くなっただけで、Imperial が維持されている。
- 95 名前:名無しさん 投稿日:2008/07/21(月) 08:33:28 ID:VTvIpJYs
- 本文の I. General の 2. Annexation の D. Treatment of Ex-Imperial
Family of Korea (pp.17-18) にも関連する記述があるので写してみる。
In connection with the Annexation, His Majesty the Emperor of Japan,
being extremely anxious to promote the prosperity of the ex-Imperial
Family of Korea and to accord due and appropriate honours to the
Sovereign of that country and his relatives, other Imperial rescripts
were promulgated on Annexation day, by which the Korean Emperor, being
thereafter invested as Ō, (Wang in Korean) "Prince", is to be known by
the name of the Li-O (or Yi Wang in Korean) of the /Shotoku/ Palace;
and the Crown Prince is to be called Ōseishi or "Prince Heir," so that
the hereditary title should endure forever; while the Emperor Father
is to be given the title of Tai-Ō, r "Father Prince", being hereafter
known by the name of the Li Tai-O (Yi Tai-Wang) of the /Tokusu/
Palace. Their consorts are to be given the titles, respectively, of
Princess, Princess Heir, and Grand Princess. The aforesaid Princes and
Princesses are also to receive the title of "Imperial Highness" and
the treatment of Imperial Princes or Princesses of the Blood. Their
annual grants are to be sufficient and the same as hitherto, the total
amount being 1,500,000 /yen/, defrayed from the annual budget of the
Government-General of Korea. Members of the ex-Imperial Family of
Korea other than those mentioned above, such as a step brother of
Prince Li or his uncle, are also to be treated as Imperial Princes or
Princesses of the Blood, receiving the title of "Imperial Highness";
and for these two relatives of Prince Li, a grant of 840,000 /yen/ is
to be given out of the Imperial Donation Fund respectively for the
maintenance of their households.
With regards to the management of the household of Prince Li's
family. an organic regulation of the Household Office was promulgated
by a decree of the Imperial Household Department of Japan, issued in
December 1910, by while Prince Li's Household Office was brought under
the supervision of the Minister of the Imperial Household
Department. The fixed number of the Household Office was specified as
273, about half the number of those employed in the former Imperial
Household Department of Korea. A reduction of about 220,000 /yen/ has
been made in the expenses of Prince Li's Household on account of the
diminution of the employees and the abolition of numerous court
ceremonies, so that the sum of 1,500,000 /yen/, designated as the
annual grant for Prince Li's Household, should be quite a liberal
allowance as compared with that previously granted. In order to
maintain uniform control of the administration of Korea, the business
of Prince Li's Household Office and its employees was brought under
the jurisdiction of the Governor-General of /Chosen/.
- 96 名前:名無しさん 投稿日:2008/07/21(月) 08:34:00 ID:VTvIpJYs
- // で囲った部分はイタリック。誤植が一箇所。Emperor が Fmperor となって
いる。
こちらもやはり Imperial Prince となっている。
1911-12年版には王公族に関する節がなく、わずかに Introduciton で言及され
るのみ。ここでの記述を見ると Their Highnesses Prince /Li/ Junior and
Prince /Li/ Senior と the Heir Presumptive となっていて Imperial の文字
がない。
あと、古い Japan Yearbook も若干参考になる。控えをとってないので以下は
うろ覚え。要確認。初期は王公族は Korea の章に記述されていたが、後には皇
族に続いて説明されている。日本語と朝鮮語の読みが混在していたのが、最終
的には日本語読みで統一される。後期には His Highness を使っており、
Imperial の文字はない。王と公は区別されてなかったと思う。
- 97 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 98 名前:名無しさん 投稿日:2008/07/26(土) 22:23:09 ID:tujeTlC2
- The Japan Year Book から王公族関連の記述。全号見たわけじゃないので、目
ぼしい変化を見つけたのだけ。
1921-22年版では Chapter XXXVI Chosen (Korea) の The Royal House of
Korea という節に記述してある。短いので全部写す。
The former Emperor of Korea is now known by the title of His Imperial
Highness Yi Wang (Prince Yi), and Prince Heir. Their Highnesses
receive the treatment of Princes of the Blood and their annual grants
remain same as before the annexation, i.e. en 1,500,000. In April 1920
the Prince Heir married in Tokyo Princess Masako, daughter of Prince
Nashimoto.
王公族とは関係ないけど、関東大震災前なのに、Chapter III に
Earthquakes, Volcanoes and Mineral Springs が置かれていて、やたら地震に
詳しいのに驚いた。
続いて1930年版。Chapter VI Imperial Court に記述されて、皇族と一体化し
ている。Korea の章では言及なし。皇族に続いて、Royal House of Korea とい
う節が置かれている。ただし Imperial の文字がない。固有名詞は、Yi,
Prince Gin, Princess Masako, Princess Im, Princess Tokukei, Prince Yi
Kang, the late Grand Prince Yi など一貫性がない。
そのすぐ後に皇室典範 (The Imperial House Law) が翻訳してある。「皇族女
子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」とした増補 (Additional Rule) では以下
のように、「王族」「公族」を翻訳しないまま。
A female member of the Imperial Family can marry a male member of
Ozoku or Kozoku (former Royal Family of Korea).
1943-44年版では、The Imperial Court が冒頭で置かれ、章番号を付けずに特
別扱いされている。大東亜戦争に割くページが多くてまさに戦時体制。
皇族に対しては H.I.M. と H.I.H. が律儀に付けられている。皇族に続いて
Royal House of Chosen が説明されている。こちらは H.H. でちゃんと差をつ
けている。項目が立っているのは、H.H. Prince Ri (Gin), H.H. Princess Ri
(Masako), H.H. Princess In, H.H. Prince Ri (Ken), H.H. Princess Ri
(Yoshiko), H.H. Prince Ri (Ko), H.H. Prince Ri (Gu), H.H. Princess Ri
(Sanshu), H.H. Princess Ri, H.H. Princess Kin。日本語読みに統一されてい
る。脚注で以下のように断っている。
The house name of the Chosen Royality is pronounced "Yi" in Chosen,
but here it is given as "Ri" according to Nipponese pronunciation.
最後のの二人は高宗の側室。李氏、金氏と朝鮮の姓になっている。一方、
Princess Ri (Sanshu) は、侯爵朴泳孝の孫の賛珠だが、Boku ではなく Ri と
なっている。王公家軌範には特に姓の規定はないけど。
- 99 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 100 名前:デッドテック ★ 投稿日:2008/07/28(月) 05:36:49 ID:???
- テストします。。。。。。
- 101 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 102 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 103 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 104 名前:名無しさん 投稿日:2008/07/30(水) 02:36:14 ID:x9yewLMI
- >>94
> そろそろこのスレも放棄した方が良い様に思うんですが、どうでしょうか?
「あぼーん」が多いからですか?
- 105 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 106 名前:デッドテック ★ 投稿日:2008/07/31(木) 12:37:10 ID:???
- >>94,104
逆引き出来ないIPの様ですが。。。。。
もう少し頑張ってみます。。。。。
- 107 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 108 名前:名無しさん 投稿日:2008/08/02(土) 08:42:26 ID:OkiIdZhE
- >>106
ありがとうございます。
お言葉に甘えてもう少し続けさせていただきます。
- 109 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 110 名前:デッドテック ★ 投稿日:2008/08/02(土) 18:11:37 ID:???
- 大量に透明あぼーんをしたので。。。。。。。
ログの再取得をお願いいたします。。。。。。
ご迷惑おかけしてすみませんでした。。。。。
- 111 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
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