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歴史系総合
- 18 名前:名無しさん 投稿日:2005/11/07(月) 22:53:43 ID:YGFjruuA
- 鴛淵が参照した漢籍のうち、清末の東華録を除き、開国方略と太宗実録を確認
した。使用したのは文海出版社が出版した「清朝開國方略」の影印本と新文豐
出版が出版した「大清太宗文皇帝實録」の影印本。しち面倒臭い文献考証のた
ぐいは本職に任せる。改竄する必要性がなさそうな部分だから、考証を省いて
もあまり問題ないだろう。
開国方略巻二十七太宗文皇帝崇徳四年に三田渡に関する記述があった。以下抬
頭・闕字の類は無視して適当に区切る。今回は何となく旧字で。
庚戊。朝鮮國王李倧立碑紀 恩 朝鮮國王李倧感太宗歸妻子。復其國土。樹
碑三田渡地方。頌上功コ。傳示萬世。先以其事入奏。太宗遣内院官察布海。
李棲鳳。弼禮克圖。戸部承政瑪福塔等。往觀之。錄其碑文進呈。其文曰。
以下碑文。ただし碑文の最後の一文「崇徳四年十二月初八日に立てた」が欠け
ている。
太宗実録は巻四十九に二箇所。こちらは最初から区切られている。
[十一月]巳未。先是。上率大軍再征朝鮮。圍國王李倧於南漢山城。俘其妻子。
軍民危迫。國勢垂亡。倧始出南漢山城。諸軍門納款。上特加矜宥。聴王還國。
歸其妻子。復其國土。輯其人民。封倧王爵如故。至是朝鮮王頌上功コ。樹碑
於三田渡地方。傳示萬世。以其事奏聞。上遣内院官査布海。李棲鳳。畢禮克
圖。偕戸部承政馬福塔。禮部参祭超哈爾。刑部参政宗室吳達海等。往觀之。
[十二月]庚戊。査布海等還自朝鮮。錄其碑文進呈。其碑文曰。
以下碑文。こちらも碑文の最後の一文「崇徳四年十二月初八日に立てた」が欠
けている。
ttp://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2303/kusunoki.html
で楠木賢道が言うように内国史院档は太宗実録の稿本の一つであると考えられ
る。要するに、内国史院档の崇徳四年十一月初六日の条と崇徳四年十二月二十
八日の条がそのまま太宗実録に使われたようだ。開国方略は十二月二十八日の
方に一つにまとめたのだろう。ということは、太宗実録の満文本にも碑文の写
しが載っていると予想される。
太宗実録の満文本については、
石橋崇雄: 「順治初纂『大清太宗文皇帝実録』の満文本について」『松村潤
先生古稀記念清代史論叢』、127-139頁、1994年
が調査している。石橋によれば、北京の中国第一歴史档案館に順治初纂の『大
清太宗文皇帝実録』満文本が所蔵されている。満文本を元に作られた漢文本と
比較すると、内容はほぼ同じだが直訳とはなっていない。問題の崇徳四年十一、
十二月が収められた巻は、1994年の時点で未発見という。それから10年以上経っ
ているから、発見されているかもしれないが、素人が気軽に見られる環境は依
然整っていないだろう。
漢文本太宗実録所収の碑文は、明らかに李景奭の元の漢文から採ったものだ。
鴛淵論文の漢文と比べると、何箇所か漢字が異なる部分があった。でも満文か
らの重訳でこれほど一致することはありえない。どの段階で満文が漢訳された
のか不明だが、碑文の部分だけは訳さずに元の漢文を写したことになる。
碑文とは関係ないけど、資料を漁っている最中に東北工程がらみの中国語の出
版物を何冊か見た。論考のタイトルを見ると、高句麗の帰属がどうのこうのと、
あからさまに政治的で笑った。論者の中に朴某とか朝鮮族っぽいのが混ざってい
るけど、連中は今の動きをどう思っているのだろうか。
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