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歴史系総合
- 62 名前:鄭聲之 投稿日:2007/09/09(日) 01:19:33 ID:j271kPXY
- >上野公園の博士王仁碑の設立経緯
上野公園にそんなのあったっけ?
おれすぐ近くの日暮里に住んでてよくいくけど知らないよ?
- 63 名前:名無しさん 投稿日:2007/09/10(月) 09:44:26 ID:7TwaYy.A
- >62
> >上野公園の博士王仁碑の設立経緯
>
> 上野公園にそんなのあったっけ?
> おれすぐ近くの日暮里に住んでてよくいくけど知らないよ?
これだね
ttp://www.blu.m-net.ne.jp/~tashima/c2006.html
上野公園にある「王仁(わに)博士碑」を訪ねて
- 64 名前:あぼーん 投稿日:あぼーん
- あぼーん
- 65 名前:名無しさん 投稿日:2007/09/10(月) 22:14:25 ID:S2Pq3Q9Y
- 私も上野公園には一度行ったことがあるけど、王仁の碑は確認していません。
金秉仁: 「王仁의 「지역 영웅화」 과정에 대한 문헌사적 검토」
『韓國史硏究』115、177-205頁、2001年
「王仁の「地域英雄化」過程に対する文献史的検討」は、水野と大石が引いて
いる論文。タイトルから漢字ハングル交じりかと思っていたのに、入手してみ
たらほとんどハングルで泣いた。hwp のファイルがネット上に落ちていたので、
そっちを見ながらなんとか読む。
水野は、「「王仁」の記録が韓国で初めて現れるのは韓致淵 (1765〜1814年)
の『海東繹史』である」とし、その記述は「寺島良安の『和漢三才図会』とい
う史書の記述をそのまま書き写したにすぎない」とする。また、「王仁が霊巌
で生まれたという記述が現れる史料は李秉延『朝鮮寰輿勝覧』(1922〜37年) で
ある (同時期に刊行された『霊巌郡誌』などの史料には「王仁」について一切
言及がない)」と、特に文献を引かずに述べている。水野はこのすぐ後に金秉仁
の論文を紹介しているが、実は前の記述も金論文に依ることが確認できた。
『海東繹史』の記述が『和漢三才図会』の引き写しなのはいいとして、それが
初出という主張は、どの程度本格的に文献を調査した結論なのか分からない。
だいたい、水野は続編の『韓vs日 「偽史ワールド」』の38頁で、
1655年に従事官として日本に赴いた南龍翼 (1628〜92) の『扶桑録』には
「応神天皇の代に百済による王仁の派遣があった」(中略) などと書かれてい
る。言うまでもなく、これは『日本書紀』の記述に沿ったものである。
と書いている。これも誰かの受け売りだろうが、参考文献を明記していないの
で分からない。これが本当なら、金秉仁の主張は誤りである。議論の大勢には
影響ないけど。水野は続編を書いていて矛盾に気づかなかったのだろうか。
とりあえず南龍翼 (壺谷) の『扶桑録』を確認してみた。『大系朝鮮通信使』
第3巻に東洋文庫蔵本の影印が収録されている。これは『海行ハ載』に収めら
れたもので、活字。ざっと斜め読みしてみたが王仁に関する記述は見当たらな
かった。見落としている可能性も低くはないが、少なくとも詳細な記述はない
だろう。ただし、同じ南龍翼による『聞見別録』にはあった。「倭皇代序」と
いう項目の、「応神皇」の部分に「乙巳百濟遣王子王仁」とある。王仁を王子
と勘違いしてるっぽい。こんな感じの記述は『海東諸国紀』にもあったような
気がしたので調べてみら、応神天皇の部分に、「十五年甲辰百濟送書籍十六年
乙巳百濟王太子来」とあった。王仁に関するのは15年の条だが、王仁の名前は
出てこないが、申叔舟が参考にした書籍の中に王仁の名前が出てきた可能性は
高そう。南龍翼は、確実に王仁の名前が出てくる資料を参考にしたが、適当に
編集したために15年と16年の条を混同したのだろう。
金論文にあまり触れていない気がするが、今日はここまで。
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