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歴史系総合

[6:名無しさん(2005/09/15(木) 00:07:07 ID:zUf3Huc2)]
どんな組織でも仲間割れするところはやはりウリナラサラムです。しかし自然
消滅という村山の説明は、日帝の過酷な弾圧を受けたとするウリナラの公式見
解と随分異なります。その一例を下に載せます。出てくる固有名詞も一致する
ことろが少ないし、再調査が必要そうです。


檀君信仰
ttp://kr.dic.yahoo.com/search/enc/result.html?pk=12345400
大倧教
純粋な檀君宗団の中ひとつの大倧教は日帝強制占領期間の下羅浮ネどによって
組職された。羅浮ヘ日帝の教団弾圧を避けて布教本部を満洲地方に移したし、
宗教活動といっしょに民族運動を展開した。8・15光復と一緒に教団はソウル
に移して来たし、ひととき韓国の6大宗教の中一つで教勢が成長したが現在は
弱い。教経で《三一神誥》がある。

檀君教
羅浮ニ一緒に檀君教を立てた鄭薫謨は檀君教を大倧教で直す時これに反対して
檀君教名を固守すると言いながら大倧教と割れた。その後檀君教は朴泳孝と結
託、朝鮮総督府の公認を受けたりした。しかし鄭薫謨の死亡後活動はほとんど
なかった。


[7:名無しさん(2005/09/15(木) 21:43:03 ID:zUf3Huc2)]
アジア歴史資料センターで大倧教の情報がないか探してみました。


各国ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第一巻 18.満州国
(各国ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第一巻)
レファレンスコード:B04012535800

p.4 昭和2年6月の調査
大倧教は「教会又は寺院数」8、「信徒数」2,104。
キリスト教が18,700だからかなり少ない。

p.19 昭和2年6月の調査
龍井村大倧教区
 大教主羅蕪凾ェ不逞団に加入したるため大正九年以来教勢衰退有名無実の状
態に在り。
仲坪大倧教堂
 大正九年寧古塔本部より□[金?]竜なる者□布教せしに始まり□□□□しつ
つありしか目下振るわず
大汪清大倧教
 大正十五年六月治安妨害なりとて支那側より解散を命ぜられん□たるか哀願
の結果免れたるも信徒減少教勢振はず

p.50 昭和7年6月の調査
龍井村大倧教
 教主羅蕪凾ェ不逞団に加入したる為大正九年以来教勢衰退有名無実の状態に
あり。


第三章 満州ニ於ケル朝鮮人ノ教育及宗教ニ関スル状況
(在満朝鮮人概況 昭和8年度)
レファレンスコード:B02130035400

第二節 宗教状況
 元来朝鮮人には固有の宗教と称すべきものなく...是等の準宗教と雖、殆ん
ど外来教の折衷又は模倣に過ぎず。...唯檀君教のみは近世朝鮮の神話奇説に
基きて開教せられ、之が別派に大宗教あり。
 朝鮮人の満洲移住と共に、其の信奉する宗教も亦之に随伴して移入せられた
るも、元来朝鮮人は宗教に対して冷淡なるに加え、移住者の大多数は貧困者に
して辛うして、其の日の生計を追ふの徒なるを以て、信仰生活に顧みるの余裕
ある者極めて少なき結果、宗教の発展亦見るべきもの殆んど無し。唯此間に当
り独り異彩を放つものは基督教にして...
 ...準宗教又は宗教類似団体として取り扱はるるものの中、間島以外の南北
満洲には天道教、侍天教、済愚教及普天教の如きもの相当行はるるが如きも、
未だ組織的布教運動として著はるるもの殆んど無く、一般朝鮮人も其の信仰を
表白するを好まず、且儀式其の他の行事も多く捨てて顧みられざる状態なる為、
信徒数を調査すること実際上困難なるが、唯間島地方に在りては是等教派の布
教運動相当著名なるものあるを見る即ち同地方に行はれるる準宗教は天道教、
侍天教、元宗教、大倧教の各派にして、就中元宗教及大倧教の両派は教勢甚振
はず、夫々約八〇名及四〇名の信徒を有するに過ぎず殆んど有名無実の状態に
在るも...

第一項 南満地方 [言及無し]
第二項 間琿地方
一、間島総領事館管内

 又朝鮮人固有の宗教類似団体として天道教、侍天教、大倧教、元宗教及仏教、
儒教等あるも是等は何れも、教勢振はず又は殆ど有名無実の状態にあるもの多
く、現在に於て何等積極的活動を為し居るものなく、...
第三項 北満地方 [言及無し]
第四項 東蒙地方 [言及無し]


いずれも「各宗派別信徒数調」に大倧教の記載なし。大倧教弱いですね。昭和
に入っているからかな。この頃になると共産主義者が多いし。


[8:名無しさん(2005/09/23(金) 14:02:12 ID:eaAQ1sA2)]
清の太宗ホンタイジの本名はヘカンだと言う人がいて、ソースを聞くと三田村
泰助『明と清』だと言う。242-243ページから引用。

 スレとは聡明を意味した。かれは本名をヘカンといったが、母が海西エホの
 国王の娘であったので、ホンタイジとよばれた。この名は、モンゴル語で王
 子のことをさすが、その語源は中国語の皇太子から出たとされる。

三田村先生がこう断定しているのに、他の概説書でヘカンの名が見えないのは
妙だ。ホンタイジは欧米で誤って Abahai と呼ばれてきた関係で、名前につい
てはいろいろ研究がある。
Stary, Giovanni: "The emperor "Abahai": Analysis of a Historical
Mistake," Central Asiatic Journal, 28, Nos. 3-4 (1984), pp. 296-9
が詳しい。
Pang, Tatiana A., Stary, Giovanni: "New light on Manchu
historiography and literature," Wiesbaden : Harrassowitz in K. , 1998
も若干言及している。

『明と清』は昭和44年出版ととても古いので、その後何らかの形で決着がつい
たのかもしれない。それはともかくこんな概説書では話にならないので、三田
村先生の論文を漁ってみた。

ちょっと長いけど
 三田村泰助、『再び清の太宗の即位事情に就いて』、「東洋史研究」第7巻
 (1)、pp.1-19、1942年
から引用。

 扨てこゝらで太宗皇太極の名に就いて考えねばならぬ。太宗實錄によると、
 太祖が偶然にも第八子に皇太極といふ名をつけたが、支那では儲君を皇太子
 といひ、蒙古では位を繼ぐものを皇太極といつて居る。今太宗が汗位に即い
 た事を思ふと、その命名の時既に暗默の内に天意がかうなることを豫定した
 のであらうとお上手を述べて居る。然し本當の名は皇太極ではなかった樣で
 ある。明の陳仁錫の山海紀聞によると、「黄旗下是喝竿。老奴第四子也。老
 奴死。喝竿立。奴衆稱爲汗」とある。この通りであれば太宗の本名は皇太極
 ではなくては喝竿 hekan といふ事になる。この事實は先年和田先生から教
 示されたのであつたが、私は他に證據がないので少し疑問を抱いて居たが、
 今度李朝仁祖實錄 を見ると、太祖の沒した時にこの前後の情報を齎した平
 安監司の馳啓がのせてあつて、その文中「奴酋死後。第四子K還勃列承襲」
 と記して居る。K還勃列は hekan beile (貝勒) で陳仁錫の記述に合する事
 になり、太宗の本名は通說 の皇太極ではなくえてヘカンである事が確かめ
 られた。さうすると皇太極はどうなるか。この名稱が當時建州内部で用ゐら
 れて居た事は確かで、朝鮮の記錄 に洪太主・弘太市・紅歹是と寫して居る
 事によつて知り得る。その故に hong taiji は太宗の通稱であつたらうと思
 ふ。この言葉は元来蒙古語から轉化した詞で、蒙古では王族の子弟を指して
 用ゐた言葉で王子の意味である。太宗が特にホンタイジと呼ばれる理由はあ
 るので、彼の母の姓は葉嚇納喇氏で名は孟古哲哲 Monggojeje (mongo は蒙
 古、jeje は姐姐の音寫) と稱した。彼女の里方の葉嚇納喇氏はその始祖は
 土默特 tumet 姓の蒙古人で、それが海西女直族の納喇氏を滅し、その姓を
 冐したので、謂はゞ蒙古系女眞貴族の家柄である。從つてモンゴジエジエ生
 む所の太宗を建州部衆が本名ヘカンと云はずに、蒙古の王子を意味するホン
 タイジを以て呼び慣はしたものと考へられる。既に記した如く當時の女眞族
 の上流社會は蒙古文化が風靡していたのであるから、この通稱から推察する
 と、太宗の貴公子振りはその出自教養武勇等、凡ての點で太祖の他の諸子を
 凌いだ壓倒的存在であつた事が窺へよう。そして太宗の中の文字の素質は一
 面母の系統を受けついだものと思へる。

念のため該当する李朝実録の記述を探す。とりあえず索引が役に立たないこと
がよくわかった。最初にヌルハチの死が報告されたところからずっとページを
追っていると見つかった。仁祖実録 巻十四 四年丙寅十月癸亥の記事。

 平安監司尹暄馳啓曰。唐将徐孤臣言。賊将劉愛塔。開原之人。而早年被擄者
 也。使㺚[犭達]子李姓者。持諺書出送曰。奴酋死後。第四子黒還勃烈承襲分
 付。先搶江東。以除根本之憂。次犯山海關寧遠等城云。

こんな伝言ゲームが信用できるのか。

念のため満洲語辞典で hekan を引いてみたが載っていない。母音調和してい
ないからモンゴル語からの借用でもない。満洲人の名前は特に意味がないこと
が珍しくないけど。

わずか二例にすぎない hekan を hong taiji より優先するのはホンタイジが
人名っぽくないから。モンゴル語の qung tayiji も称号で、本名とは言いが
たい。でも上の二例だけでは本名と断定するには不十分だと思う。


[9:名無しさん(2005/09/28(水) 20:17:31 ID:qfxg60zs)]
NAVERのjpn1_rok0氏などが、高麗王のモンゴル人濃度を 1 - 0.5^(n-1) (n>1)
で計算していたけど、これは正しくない。モンゴル皇室から妃をもらっても、
子供ができるとは限らないから。というわけでネタにマジレスしてみるテスト。

で、検証しようと思ったのに手頃な史料がない。『高麗史』世家の各王の冒頭
にでも母親が書いてあるかと思ったら、あなだらけ。仕方がないので山川の世
界各国史シリーズの『朝鮮史』を使う。武田幸男による「第三章 高麗王朝の
興亡と国際情勢」の153ページに系図が載っている。ついでに王妃の名前は
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/kouraikeizu2.html
で補う。

1. 忠烈王 -- モンゴル人度: 0%、父: 元宗
2. 忠宣王 -- モンゴル人度: 50%、父: 忠烈王、母: 斉国大長公主忽都魯掲里迷失 (クトルグケルミシュ、フビライの女)
3. 忠粛王 -- モンゴル人度: 75%、父: 忠宣王、母: 懿妃也速真
4. 忠恵王 -- モンゴル人度: 37.5%、父: 忠粛王、母: 明徳太后洪氏
5. 忠穆王 -- モンゴル人度: 68.75%、父: 忠恵王、母: 徳寧公主亦憐真八剌 (イリンチンバル)
6. 忠定王 -- モンゴル人度: 18.75%、父: 忠恵王、母: 禧妃尹氏
7. 恭愍王 -- モンゴル人度: 37.5%、父: 忠粛王、母: 明徳太后洪氏

ということで、モンゴル人度最高は忠粛王、ついで忠穆王という結果となった。
高麗人妃の出自はわからないので、とりあえず100%高麗人と仮定した。歴代高
麗国王はモンゴルの公主をもらっているけど、子供ができない場合が多く、意
外とモンゴル人度が低い。それでも桓武天皇の百済人度とは比較にならないけ
ど。


[10:名無しさん(2005/10/06(木) 22:02:01 ID:ZbOubb0M)]
上述の山川の『朝鮮史』に執筆していた武田幸男は、たしか朝鮮古代史が専門
で、高麗時代は専門外だったと思う。『史学雑誌』の「回顧と展望」を見ても、
本当に高麗を研究している人がいない。それが概説書にも現れているというこ
とか。でも、武田氏は、杉山一派の「大元ウルス」という用語を使ってみたり、
巻末の文献紹介には載っていないけど、森平雅彦の論文を参考にしていそうな
記述があったりして好感が持てる。


旧総督府の前スレに延々と載せた「大清皇帝功徳碑」、通称「三田渡碑」につ
いて続報が入った。
ttp://www.banner4every1.com/cgi-bin/test/read.cgi/exkorea/1054380199/6-12

以前は鴛淵一氏の1928年の論文「清初に於ける満鮮関係と三田渡の碑文」を利
用したが、内容にかなり問題があった。今日、たまたま
 加藤直人、「奎章閣および三田渡碑瞥見記」『満族史研究通信』第10号、173-176頁 2001年3月25日
を読んで、
 成百仁、「三田渡碑滿洲文」『東亞文化』第9輯、115-148頁 1970年
という論文の存在を知った。成百仁は満学の世界では結構有名な先生らしいが、
私は朝鮮語がほとんど読めないので詳しいことは知らない。

また、加藤の報告によれば、
 近年、中国第一歴史檔案館所蔵内国史院「天聰四年檔」が公開され、その天
 聰四年十二月二十八日の条にその原文が記されていることがわかり (略)
とあり、脚注に
 中国第一歴史檔案館編『清初内国史院満文檔案訳編(上) 天聰朝、崇徳朝』(北京・光明日報出版社, 1989年10月) 448〜450頁
と書いている。

大阪大学所蔵檔案史料目録
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/dangan.html
によれば、阪大の附属図書館が所蔵しているらしい。OPACではヒットしないけ
ど。しかし『清初內國史院滿文檔案譯編』の「譯編」の文字が気になる。本の
体裁がわからないけど、漢訳だけ載っているなら最悪だ。

成の論文はすぐに入手できた。漢字ハングル交じり文。もう少し漢語を漢字で
表記してくれればどうにか読めていたような雰囲気だ。


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