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高句麗語合戦3 〜あれは韓国これは日本〜
- 259 名前:娜々志娑无 ◆1ONcNEDmUA 投稿日:2007/05/11(金) 14:49:28 ID:syWrrgV.
- まだまとめ切れていませんが、そろそろ>>245-249の続きを書かないと見捨てられそうなので、
せめて資料だけでも提示しておきたいと思います。
A王、夫人、子、正(世)〜、中〜、小〜
A 百濟本記云、高麗、以正月丙午、立中夫人子爲王。年八歳。狛王有三夫人。正夫人無子。
中夫人生世子。其舅氏麁群也。小夫人生子。其舅氏細群也。及狛王疾篤、細群・麁群、
各欲立其夫人之子。故細群死者、二千餘人也。 (巻一九・欽明七年条)
『日本書紀』欽明七年(>>245の翌年)に引用された百済本記の一節です。>>245の高句麗
大乱の件がより詳しく記されています。既に>>62や>>142-151で指摘済みですが、随所に
高句麗語らしき語が登場します。なお、「夫人」については、
B 母夫人(巻二七・天智七年一〇月条)
のように、天智七年条にも見えますので、欽明七年の分をA、天智七年の分をBとして当該
箇所をそれぞれ指摘することにしました。私の手持ちの資料では、Aについては兼右本、
北野本、『釈日本紀』で、Bについては前記の写本に加えて穂久邇文庫本でも参照可能です。
- 260 名前:娜々志娑无 ◆1ONcNEDmUA 投稿日:2007/05/11(金) 15:20:16 ID:syWrrgV.
- ◎北野本
ではまず古いもの優先ということで、北野本から。Aの記述のある巻一九は南北朝頃の写本
でスレ主は写真で確認済み。Bの巻二七は平安末期の写で、スレ主は影印その他では確認
を取れていませんが、幸い『新訂増補国史大系』に北野本の訓として引用されておりますので、
とりあえずそれで内容を知ることが出来ました。なお、傍訓の「+」は片仮名の踊り字「ヽ」を表わ
します。
A アル フミニ ク ヲ ノ
百ー濟 本ー記 云 高ー麗 以 正ー月 丙ー午 立 中 夫ー人 子 為 王 年 八ー歳
二 一 二 一 V
コマノ ノ ノ ノ
キ百 王 有 三 夫ー人 正 夫ー人 無 子 中 夫ー人 生 世ー子 其 舅 氏 麁 羣
二 V 二 一
イ无 ノ ノ
也 小 辛 夫ー人 生 子 其 舅 氏 細ー羣 也 及 キ百 王 疾ー篤 細ー羣 麁ー羣
V
ノ
各 欲 立 其 夫ー人 之 子 故 細ー羣 死ー者 二ー千ー餘 人 也
V 二 一
B イロハノヲリク+
母 夫 人
このうち、Bの「イロハ(母)」は生母の意の上代日本語ですが、「ヲリクヽ(夫人)」は平安末期の
用例ということで極めて重要なものと言ってよいでしょう。一方、Aは訓がほとんどないため、一見
高句麗語資料としては何の役にも立たないように見えますが、ところがどっこい、ここにも極めて
貴重な情報が隠れております。本文の3行目の「小辛夫人」の箇所に注目してください。この箇所、
他の多くの写本では「小夫人」となっておりまして、北野本でも「辛」の右傍に「イ无」(異本には本文
に「辛」の字がないという意味)と注記されております。実際この箇所は正夫人、中夫人と来て序列
3位の夫人の意ですから、「小夫人」の方が明らかに勝ります。そこで、旧大系でも新全集でも、
この箇所の本文として「小夫人」を採用し、北野本の「小辛夫人」は排しているわけですが、では
なぜ北野本の本文に「辛」という文字が存在するのかが問題となります。結論から先に言えば、
この「辛」はもともと「小」の箇所に記されていた傍訓であって、北野本の祖本の段階で本文に衍入
したのではないかとにらんでおります。スレ主がなぜそう考えるに至ったかは『釈日本紀』の当該
箇所を見ればわかります。
- 261 名前:娜々志娑无 ◆1ONcNEDmUA 投稿日:2007/05/11(金) 15:47:10 ID:syWrrgV.
- では説明の都合上『釈日本紀』を先に示しましょう。
◎釈日本紀(13世紀末成立)
A コクソリ
注 コマ モチ ム ツキノヒノヘムマノ日ヲ タテ+ クノ ヲリク+ノヨモヲ ス オリコケ トシ ヤツ
○高 麗 以 正 月 丙 午 立 中 夫 人 子 為 王 年 八 歳
二 一 二 一 V
コクヲリコケ アリキ 刀タリノヲリク+ マカリ オリク+ハ ナシヨモ クノ ヲリク+ ウメリ マカリヨモヲ ソノ シウトハ ソ クム
狛 王 有 三 夫 人 正 夫 人 無 子 中 夫 人 生 世 子 其 舅 氏 麁 群
キ百 二 一 V 二 一
音信
ナリ シム ヲリク+ ウメリ ヨモヲ ソノ シウトハ 匕イクム ナリ オヨムテ コクヲリコケノ ヤマヒスルニ
也 小 夫ー人 生 子 其 舅 氏 細 群 也 及 キ百 王 疾 篤 細 群 麁 群
六隻 V 二 一
ヲノ++ ス テムト ソノ ヲリク+ノ ヨモヲ シヌルモノ
各 欲 立 其 夫 人 之 子 故 細 群 死 者 二 千 餘 人 也
V 二 一 フタヒ+アマリ
B イロハノヲリク+
母 夫 人
大量の高句麗語らしき語が見えますが、まず>>260の件を先に片付けます。同書に引用され
ている『日本書紀』の本文を見ますと、当該箇所は「小夫人」となっておりますが、その傍訓が
重要です。見ての通り、「シムヲリクヽ」と付訓されており、更に「シム」の右傍には「音信」という
注記まであります。もうおわかりでしょう。北野本の「辛」も『釈日本紀』の「シム」「信」も、文字
こそ違え同内容であることを。「辛」も「信」も日本漢字音は「sin」ですし、片仮名表記の「シム」
の方も、平安末期には漢字音の唇内鼻音mと舌内鼻音nの区別はもう失われていたので、
「ム」と書かれていても-mを表わしていたとは言えませんから、こちらも「sin」という音を表わし
ていたと見ることが出来ます。以上から、スレ主は「小夫人」の「小」に相当する高句麗語として
「sin」を再構することが出来ると考えます。おそらく「信」や「辛」は、古代日本語においてはまだ
撥音が音韻として定着しておらず仮名では書きづらかったため、「信」「辛」のような舌内鼻音n
を含む漢字で代用(=類音表記)したものでしょう。片仮名訓「シム」は撥音の表記法の定着に
伴い平安後期以降に片仮名で表記し直されたものと推測されます。
- 262 名前:娜々志娑无 ◆1ONcNEDmUA 投稿日:2007/05/11(金) 15:58:51 ID:syWrrgV.
- そういう意味では、旧大系が「小夫人」に対して「シソオリクヽ」という訓を
与えた(>>142-143参照)のは、明らかに誤った処置であると言えます。
思うに旧大系の編者(おそらく大野晋)は、欽明紀二年四月条の「中佐平」
の「中」に対する古訓「シソ」と結び付けるために、『釈日本紀』の古訓「シム」
は「シソ→シン→シム」という誤写によって成立したものと推定したのでは
ないでしょうか。しかし、そもそも「シソ(中)」は百済語であると考えられます
し、意味の上からも「小」とは大きく異なっておりますから、どう考えてもこの
処置はやり過ぎでしょう。大野晋は反省汁!
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